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『江戸のエコロジスト一茶』(マブソン青眼著、角川書店、2010年)

(「檻の俳句館」館主)マブソン青眼著『江戸のエコロジスト一茶』(角川書店、2010年刊行)全文を添付・公開致します。出版社の方では現在絶版になっておりますが、ぜひこのホームページからお読みになり、信州の俳人・小林一茶のヒューマニズムと民主主義的思想と”心のエコロジー”に耳を傾けましょう!


第一章 ”鄙び”への道のり(帰郷後一年目、文化九~十年)


①“文系的なエコロジー”に向けて


 江戸時代の日本列島、排気ガスの年間総量はもちろん零グラムでした。また、食糧自給率はほぼ百%でした。しかも小林一茶が生きていた江戸末期の農村と現代日本の都会を比較した場合、必ずしも今の日本の人々の方が幸せを実感しているとはいえないでしょう。

 これから、一茶晩年の句々に詠まれた近世村人の生き方、そして“自然と人間の共生”と呼べるような世界観を再発見してゆきたいと思います。実はその生き方と世界観は、現代社会の重大な課題である地球環境の保護のための示唆を多く与えてくれるのです。

 一茶には二つの人生がありました。反骨精神を燃やして生き延びた青年・中年と、穏やかな世界観を生んだ晩年。やはり人間の心には決定的な変化が起こり得るのです。一茶の場合、五十歳を過ぎて信州の農村に帰郷してから、確実に彼の心には何かが生まれました。彼は森羅万象と仲の良い「生き物」に変わってゆきました。文化九年の冬以降、一茶の作品は日本文化における「エコロジー的精神」の深さを物語るようになったと、僕は思います。


行(ゆく)としや かぶつて寝たき 峰の雲


 文化九年十一月十九日(西暦一八一二年十二月二十二日)の作(『七番日記』)。

 句日記に「十九晴 本庄」とあります。一茶は道中、現在の埼玉県本庄市の宿場で一泊します。この十一月、彼は故郷永住を決意し、江戸を出て北信濃の柏原へ向かいます。そもそも本百姓の長男として生まれた一茶(本名・小林弥太郎)は、さほど苦労もせずに中流以上の村人として人生を送るはずでした。彼は、幕府の法規によって父親の全財産を相続することになっていました。しかし、三歳で母を亡くした後、一茶は継母や腹違いの弟と仲が悪く、十四歳で江戸へ奉公に出されます。たまたま出会った俳諧に熱中し、はやくも二十八歳という若さで江戸・葛飾派のに任命されます。その後、七年の俳諧行脚を済ませたものの、結局は江戸の俳諧師として認められませんでした。主な理由は、その「百姓」という身分にありました。とはいえ、父の死後、四十歳になった一茶は家族からは土地も財産も何も分けて貰えませんでした。一茶はつまり、俳人としても百姓としても、生活する権利すら否定された人間です。

 父の死の七年後、村の役人の仲介を得て、ついに第一次遺産交渉が終了します。一茶は土地と家の半分を相続することが許されます。損害賠償については、のちの交渉に持ち越されることになっています。

 この句を詠んだ時の一茶はもはや五十歳です。裕福な俳人・夏目成美の庇護を受けてはいますが、江戸の俳壇につくづく疲れています。作品よりも格式を尊ぶ葛飾派から次第に一茶の気持が離れてゆきます。行く年の浮雲のように、江戸でみた夢は心から離れてゆきます。その文化九年の四月に、大切な女弟子・花嬌の三回忌がありました。十月には同じ房総地方の親友、双樹が逝きました。嫌な一年でした。一茶は十一月十七日に江戸を立ちます。もうこの大都会の修羅場には戻らないぞと自分に誓って、中仙道を歩きます。

 本庄の宿に着くと実はさきほどの句に続いて、類似する別の作品、発句ならぬ俳諧歌を書き止めます。

ねがはくば松に生てぬく〳〵と

 かぶつて寝たき峰の白雲

 

 もちろん西行の名歌「ねがはくは花のしたにて春死なむ…」の反転として、滑稽味あふれる狂歌になっています。が、それだけの作品ではありません。

 一茶は西行のこの歌を踏まえるのが好きだったようです。実は十五年後の文政十年の春も、また同歌の本歌取り「花の陰寝まじ未来がしき」を詠んでいます。その「花の陰」の句は一茶が亡くなる半年前の吟となり、一般に一茶の辞世句といわれています。一茶は文政十年十一月十九日に亡くなります。そうです。十一月十九日といえば、帰郷の途中でさきほどの本庄の宿に泊まった日と同じ日です。十五年後のちょうど同じ日に、自分が故郷で息を引き取ることになるとは、一茶はその時知るはずもありませんでした。それでもなぜかこの日、彼は西行の辞世といわれている歌を踏まえて、人間よりも松に生まれたかったのだと嘆くのです。詩歌を吟ずる者は、他次元の世界と繫がっていると思わせるような偶然です。

 それはともあれ、高木に化身して俗塵を離れて雲を被りたいという一茶の願望は西行の吟よりもはるかに思い切った感情移入、いわば“自然に対する同化意欲”がうかがえるといえます。ところで、まったく同じ時代を生きたドイツのベートーヴェンの名言が思い出されます。

我は一人の人間よりも一本の木の方が好きだ

EinBaum bedeutet mir mehr als ein Mensch

 いずれも、母なる自然への回帰を願う、老いの金言といえましょう。人生以上に樹木の生命を敬愛するという奇想。

 一茶は、数年前の俳文集『父の終焉日記』所収の俳諧歌のなかでも、すでに「の」という序詞に託して、理想の人生を竹の清らかな姿に喩えています。

うけがたき人と生れてなよ竹の

 直なる道に入るよしも哉

 

 一茶晩年の、動植物を人間に喩えた擬人化の句々は有名ですが、同時期に一茶は頻繁に人間を動植物に喩えてもいたのです。以上の俳諧歌二首がその例となります。そこにはいわゆる「擬人化」の反対となる「」と呼ばれる比喩表現を認めることができます。「擬人化」と同様に、「擬物化」は人間とその他の生き物を同じレベルで捉えるという感性が働いています。一茶は一流の俳人のなかで唯一農民の出であったため、唯一そんな感性に基づいた「生き物感覚」を詠むようになったと、僕は思います。生きとし生ける物をみな同じく敬愛するような世界観を、金子兜太氏は「一茶のアニミズム」と呼んでいます。同時に、二十一世紀のエコロジー精神を支えるべく、最も大切な価値観がこのような作品に提唱されているともいえるでしょう。つまり、すべての生命の存在価値を平等に認めることによって、人間が環境の生態のバランスを守り、おのずとそれが持続可能な発展に繫がってゆくという考え方です。やはり「エコロジー」と言うのであれば、科学的データから語るべき問題ではないでしょう。人間が人間だけの快適さを求めて地球を破壊し、結局は自殺的行為に走るのを止めさせたいのであれば、まずは人のに語りかけなければなりません。科学的データで恐怖を浴びせても世の中の長期的な変化は望めません。人々に「木を愛する気持」を伝えることから、すべてが始まるでしょう。

        *     *

 『研ぎすませ 風景感覚』(技報堂出版、一九九九)に、景観工学者・中村良夫氏とアニメ作家・宮崎駿氏の対談「輝け命」が掲載され、宮崎氏は興味深いエピソードを語っています。近くの土地を駐車場からもう一度林に戻そうと、めでたく住民運動が起こったと言います。しかし、入手できた木の苗は九州産のものだったため、住民の間で議論が沸騰したそうです。それは住民の一部が他所の木の遺伝子をもってくるのであれば、緑地化運動に参加しないと言い出したのです。結局、樹木が育たないまま企画が取止めになりました。「科学的な理屈」のせいで「木を愛する気持」が忘れられました。中村良夫氏いわく、

今のエコロジーという概念はサイエンスの概念です。サイエンスの概念をそのままわれわれ人間行動の判断に持ち込むことにはある種の危険がある。

 では、人間に馴染みやすい“文系的なエコロジー”の精神をどこから求めましょうか。それはもちろん、江戸時代の大俳人で、唯一百姓だった小林一茶の作品から求めるべきでしょう。もし世界中の人間が、なかでも政治家たちが一茶と同じ眼差で木々を仰いでいたら、京都議定書の実施はきっと近づいてくれるに違いありません。

 「エコロジーの時代」に向けて、まずはわれわれの思考様式を換える必要があります。

 さて、一茶翁の帰郷の旅は続きます。十一月二十一日(西暦十二月二十四日)は碓氷峠の「大吹雪」に耐え、七日間必死で歩いたあげく、いよいよ二十三日の夕方、故郷の北信濃・柏原に到着します……。




故郷の雪、故郷の花



  これがまあ死所(しにどころ)かよ雪五尺

 文化九年十一月二十三日(西暦一八一二年十二月二十六日)の作か(『句稿消息』)。

 『七番日記』によると、一茶が正式に故郷・柏原に入ったのは、この句を詠んだ翌日、十一月二十四日となっています。ただ、二十三日の夕方はすでに実家の前を通り抜け、その時、掲出句が生まれたのでしょう。遺産交渉がまだ完全に終わっていなかったので、最初の晩から実家にいる義母と義弟を訪ねる訳にはいかなかったのです……。

 一茶は江戸から七日間必死で歩いて来ました。吹雪の夜です。それでも、生まれた家に辿り着いたものの、玄関に入ることすら許されません。その夜は、もう少し先にある二之倉という隣村の、実母の親戚の家に泊まります。

 読者の皆さんは「これがまあのか雪五尺」という別案の方をご存じでしょう。たしかに十一月二十三日付の『七番日記』には「つひの栖か」しか載っていません。しかし僕は『句稿消息』所収の「死所かよ」こそが一茶の傑作であり、一茶の本心を伝える秀句だと思います。

 「死所かよ」が載っているのは、帰郷直後に一茶が江戸の俳友・夏目成美へ送った書簡のなかだけです。それも冒頭に、「これがまあ死所かよ雪五尺」と「これがまあつひの栖か雪五尺」が併記されています。一茶はこの手紙を最初に、その後四年にわたって成美と文通を重ね、自作六百六十句の添削を依頼してゆきます。江戸を捨てても、彼は“一流の俳人として認められる”という夢を捨てていません。成美との文通で、中央の文化と最後の繫がりをもちたかったのでしょう。しばらくして成美から返信が届きます。「これがまあつひの栖か雪五尺」の上、最高評価の「極上々吉」が朱書されています。しかし、「これがまあ死所かよ雪五尺」は太い線で抹消されています。それに、文末には成美の「わる口」一言が……。

   情がこはくて一ッ風流だから、ではとらぬ。  雪の中でお念仏でもいつてゐるがいい

 「切落」とはもともと演劇界の俗語で、ここでは句会の常連客という意味になります。つまり、お前は情が激しすぎて、風流な句会の常連たちはお前の句なんか採らないよ、雪の中で情を冷やすがよいと、叱られたような、誉められたような評でした。いくらなんでも、そんな言い方はないだろう、と一茶は思ったに違いありません。

 とにかく、「死所」は江戸の趣味に合いませんでした。そうはいえ、江戸の奴らは北信濃の雪の怖さを知ってるのか、と一茶はつぶやいたのでしょう……。 

        *     *

 僕は十年前に母国のフランス・パリから、この北信濃の長野市に引っ越して来ました。信州の方言で最初に覚えたのは「こわい」という形容詞です。ここでは「疲れた」に近い意味で、特に雪の多いころに使います。東京やパリなどの風流な方々には「こわい」の意味が分からないでしょうね。ここの雪は「怖い」ほど「疲れる」のです。ここの雪は人間の命を狙うような恐ろしさがあります。ここの雪は芭蕉さんのいう「幻の住みか」を踏まえたような表現「つひの栖」、そんな奇麗事では表せるものではありません。やはり「死所」です。

 一茶は雪五尺(一.五メートル以上)に埋もれた実家を前に、さまざまなことを思い出したでしょう。四十七年前、顔も知らぬ母親はこの家で亡くなったそうです。そして、それから継母などにいじめられ、今までのすべての苦労が始まりました。今晩は、吹雪にもかかわらず、遠慮なく実家に入ることすらできません。一茶はこの句を詠んだ時、雪の恐怖、そして死の恐怖をいたく強く覚えたのです。彼は母親を失って以来、常に死を恐れていました。母の死のせいで子供として否定され、その後は父の死のせいで百姓の跡継ぎを否定され、最後は師匠・素丸や俳友の花嬌、双樹などに先立たれ、江戸俳壇の人脈も失ってしまいました。やはり、一茶が生涯残した二万句(実際には四万句以上もあったと推測されています)、それらはすべて死に負けないための猛烈な創作意欲によるものだと思います。最初は自分の生きた証が欲しかったのでしょう。しかし帰郷してからは、一茶は成美など、に認められるために発句を作らなくなりました。自分というい命、または他の弱い人間たち(子供、百姓など)あるいは小さな動植物の命を励ますために作句するようになったと、僕は思います。

        *     *

 先月、吟行を目的にひとりでエジプトを旅行して来ました。ケフのピラミッドにあるファラオの墓に入り、その後ふたたび外に出て、の上から太陽神を仰いだ瞬間、突如一茶の猛烈な創作意欲の意味がみえたような気がしました。「一茶の二万句は精子なんだ! 命を伝えるための精子だ! 彼は両親、妻、そして子供全員に死なれたからこそ、あれだけたくさんの句を作りたくなったのだ、一茶の二万句は死に負けないための巨大な金字塔だ!」と、ひとりで日本語で叫びました。一茶の句は尊くて儚い命を伝えるための精子のようなものだったのです。門を閉じた実家に舞い降りる雪片のような精子。しかし、雪のように死をもたらすものではなく、よろずの命を運ぶ精子だったのです。


  かるた程のなの花にけり

 文化十年正月十二日(西暦一八一三年二月十二日)の作(『七番日記』)。

 歌留多程度の面積しかない菜の花畑といえば、蕪村の壮大な景句「菜の花や月は東に日は西に」の反転としても面白い句ですね。一茶はこのころ柏原と同じ千曲川左岸の隣村や善光寺町の近辺を歩き回り、少しずつ弟子を獲得してゆきます。百姓という身分のため、江戸で俳諧師に認められなかった彼ですが、全国の俳人番付では一茶調の“田舎体”は高く評価され、文化八年に発行された「正風俳諧名家」などでは東日本の最上段八位にランクされています。おりしもその時北信濃には一流の指導者はなく、十二年前に亡くなった善光寺町の宗匠・の門人たちはおのずと一茶門となってゆきます。「一茶社中」形成の第二期に当たる、極めて重要な時期です。地方の俳業を目差す一茶は挨拶回りを続け、文化十年は七十五日しか柏原に泊まっていません(小林計一郎著『俳人一茶』を参照)。掲出句はきっと一月に長らく滞在した長沼(現在の長野市)の西嶋宅辺りで詠んだものでしょう。江戸に比べれば、信濃のパトロンたちは質素な生活ぶりです。それでも、彼らは自分でナタネから油を搾り、句会の夜は惜しみなく行灯の油を燃やしてくれます。自分で作った油ですから、江戸のように商人から買う必要はありません。鎌で刈ったナタネの一部が自然に地に落ちて、翌年はまた同じぐらいの菜の花が咲きます。便利な花ですね。前の年の太陽が作ってくれた種で、生活のための明かりがちょうど間に合うのです。しかもおまけに、(これは一茶には分からなかったはずですが)植物の栽培と燃焼のバランスがとれて、一切二酸化炭素を増やさないエネルギー源となっています。石川英輔氏(『大江戸のリサイクル事情』講談社文庫、一九九七)によると、

   燃やしてできる二酸化炭素は、再び大気に混じって  リサイクルし、いずれまたどこかの植物に取り込まれ  て植物体となった。一年に燃やす量と、一年間にでき  る量は同じだったから、全体からいえば何も増えず、  減らない。

        *     *

 そういえば、僕の実家のあるフランス・ノルマンディー地方・カン市の市営バスは、僕が高校生だった一九八〇年代後半のころから、全線ナタネ油(moteurà l huile decolza)で走っています。僕は毎日バスで三十分ぐらい通学していましたが、あの長い道程は実は二酸化炭素を一切増やしていなかったのです。カン市の中心部からサン・コンテスト村まで、下校路の後半はずっと菜の花畑の中をバスが走っていました。いい風景でした。ノルマンディーの農家の皆さんは近年、麦の値下げに悩まされていましたが、バイオ・ディーゼルとバイオ・エタノールの普及のお陰で、祖先の土地を手放さないで生活ができるようになったといいます。EU議会の強い意志によって、二〇二〇年までに欧州連合の車燃料の二十%が植物性燃料に変えられることになっています(現在フランスは二%、ドイツは五%程度です)。

 ところで父もときどきガソリンの代りにバイオ・エタノールを入れています。「ちょっと高いけど、今日は機嫌がいいからさ、バイオでいこう!本当はトヨタのハイブリ

ッド車を買いたいけど、あれは高過ぎるよねぇ…」と言いながら、いつもサービス・ステーションのお姉さんへ軽いウィンクを送ります。父の“エコナンパ”はそのお姉さんには効果がないようですが、地球には悪くないでしょう!




③“鄙び”の発見


花に出て犬のきげんもとりけらし


 文化十年正月二十六日(西暦一八一三年二月二十六日)の作(『七番日記』)。

 この日、一茶こと小林弥太郎は北信濃・柏原の実家で遺産交渉の最後の「熟談」に臨みます。番犬は覚えてくれたようで、歓迎してくれました。庭先の小さな菜の花畑に出て、折れんばかりに尻尾を振りながら久しぶりに来た弥太郎の顔を舐めたりしたのでしょうか。犬なんか損害賠償のことなど、七年分の田畑の収益や家賃の返済など、そんな下らない家族喧嘩とは無縁の生き物ですから。犬は一度その人が仲間だと決めれば、一生裏切らないし、無償の愛を捧げます。乞食の犬だって餌が貰えなくても絶対に他のあるじのところへは行きません。一茶はその時、俳人こそ犬のように、無我無心に生きるがよいと思ったのではないでしょうか。江戸の俳人たちは季題として「猫の恋」をよく詠んだりしますが、上記の一茶句のように実感をもって犬や猫を詠うことが少ないです。現代俳句においては、ペット・ブームにともない「ペット俳句」が増えて来ているようですが、この種の俳句も一茶の小動物詠が元祖だといえるかもしれません。ペットは、今も昔も人間と自然の中間に位置する、特別な生き物です。自然の法則を守りながらも、一生懸命に人間に合わせようとします。つまり一茶にとってもわれわれ現代人にとっても、ペットは大らかな自然と繫がるための大切な仲介役なのです。

 ところでその日、仲裁に入ったのは(犬だけではなく!)、小林家の菩提寺・明専寺の住職です。一茶はずいぶん妥協させられました。父の死から遺産折半の交渉終了までの七年間、別のところで家賃を払いながら農作の収益を得られなかった一茶にとって、損失が三十両に上ります。現在の物価に換算するのは不可能ですが、大工の日当を基準にすれば約九百万円、かけそばを基準にすれば約四百五十万円となります(『江戸時代館』小学館参照)。結局一茶は十一両二分で我慢することになりました。だいたい六百万円を二百万円に減らされたような落胆ですね。

 それでも一茶は、犬に顔を舐められながら、初めて自分の家を持つという幸せを嚙み締めたに違いありません。たとえ腹違いの弟と半々に分けた家であっても……。

        *     *

 二十一世紀の僕らも、もし地球という共通の「家」に末長く生き続けたいのであれば、今後金銭的な犠牲が必要不可欠になってゆきそうです。問題は意外と単純です。たとえば世界経済の利益の五%を環境保護に割り当てる必要があったとしても、それだけで永久に地球温暖化を防ぐことができるのであれば、誰しも喜んでその犠牲を払うのではないでしょうか。ただ、石油産業や自動車企業などは、基本的には目先の利益を優先するので、進んで二酸化炭素排出の削減に協力する訳がないでしょう。そんな時こそ、国民が政治家を動かさなければならない、という気がします。

 二〇〇七年のフランス大統領選挙の際、環境保護運動家のニコラ・ユロー氏(NicolasHulot)はフランス革命を支えたルソーの「社会契約」に因んで、「エコロジー革命」(Révolutionécologique)を支えるべく「エコロジー契約」(Pacteécologique)を発表し、それぞれの候補者へ働きかけました。エコロジー契約の一つに、「炭素税」(taxecarbone)の設立が含まれています。要は、すべての商品の値段の一部として、品物の発売までにかかった化石燃料(水、肥料、飼料の運送、貨物の運搬などに使われた分)を計算に入れるという制度です。最終的に炭素税で納められた金額を再生可能エネルギー源の開発に使うこととするので、いずれは炭素税の必要性もなくなるといいます。

 ところで、我が家の近くのスーパー「長野東急ライフ」では一年中アスパラガスが販売されています。春夏は長野県産の新鮮なもので、秋冬はオーストラリア産のものに変わり、どちらも三本が約二百円で売られています。で

は、オーストラリアの農家の皆さんに申し訳ありません

が、その品物には運送相当の炭素税を当ててもよいのではないでしょうか。オーストラリア産のアスパラガスは非常に高くなりますが、僕は春だけ長野県産の美味しいものを頂きます(そういえば毎年うちの庭にも五、六本ばかり自然に生えて来ますよ!)。

蚊いぶしもなぐさみになるひとり哉


 文化十年五月二十一日(西暦一八一三年六月十九日)の作(『七番日記』『志多良』『句稿消息』など)。

 哲学的な深みのある秀句だと思います。この日の句日記には「父十三忌 墓参」とあります。家族で唯一の頼りだ

った父親をチフスで突然亡くしたのは、十二年前(数え年では十三年前)の享和元年五月二十一日です。十三回忌の法要はすでに一月に済ませましたが、この日、一茶は独りで亡父を悼みます。彼はまだ実家に戻っていません。遺産交渉の契約に従って一茶のために部屋の半分が用意されることになっていますが、あと数か月かかりそうです。今は亡き母の実家・宮沢家から部屋を借りたり、俳友たちの家で居候したりして、に近い生活を続けています。そこで一茶は、蚊いぶしの煙を眺めながら、フロイトの精神分析論に匹敵するほどの深い人間洞察(人間探求?)の句を詠みます。人間は蚊を殺して快感を味わうことがあります。この快感は、他の動物にみられない「死の本能」、フロイトのいう「タナトス」によります。だからこそ人間はありのままの自然を受け入れないで、自分の環境の理法を否定し、快適な生活を求めるのです。それと同時に、人間は自分や他の動物に同情したり、思いやったりすることもできます。この「思いやり」も他の動物にはみられません。犬の群れの中でさえ、自分より弱い犬を救おうという、いわゆる

“福祉的”な発想は認められません。人間の「思いやり」はすなわち「生の本能」、フロイトのいう「エロス」なのです。人間はその「死の本能」と「生の本能」の釣り合いを保って生きています。年を重ねるにしたがって、ほとんどの人間は争う姿勢よりも調和的な生き方へ傾倒してゆきます。一茶もまた、不当な境遇に反発して風刺の句を多く吐いた時期がありました。しかしこの夏ごろから、少しずつ他の人間や弱い生き物に対して、そして蚊に対しても慈愛を覚えるようになります。彼の内心には「死の本能」よりも「生の本能」の方が強くなります。彼は「心のエコロジスト」になってゆきます。


うつくしやせうじの穴の天川


 文化十年七月四日(西暦一八一三年七月三十日)の作

(『七番日記』『志多良』など)。

 六月十八日から九月五日までの七十五日間、一茶は善光寺町の門人・上原文路宅「」で長らく病臥しています。が体中に広がり、痛みが日に日に激しくなる最中、彼は辞世のつもりで掲出句を詠みます。『志多良』

(三)にみる後書によると、同じ伝染病で辺りでは死者が相次ぎました。そこで一茶は、生きる望みを捨てて次のように書き記しています。

 桂好亭をのとたのみて、けふかかと鐘聞くのみ。さりながら今身まかりぬとも、跡に泣迷ふ妻子もあらねば、なか〳〵いまはの時はうしろやすからん

 一茶はどうしても、嫁を迎えて、そして子供を授かってからこの世を去りたかったのです。つまり一茶にとって、俳諧よりもさらに大切なものは唯一、命を伝えることにあったといっても過言ではないでしょう。一茶は家庭や生活を捨てるまでして風狂に興ずる俳諧が偽りの風雅であると、悟ったと思います。誠の美とは、懸命に生きる農民たちの破れ障子、そして信州の澄んだ夜空にあります。この句以降一茶は、「わび・さび」という蕉風の“日本的美学”に、「び」という“万国共通の美学”を足してゆくのです。

 三か月後、ついに病を逃れた一茶は、俳友に囲まれて芭蕉忌を迎えます。彼はその際、病床で仰いだ破れ障子の中の星空の美しさを思い出したに違いありません。蘇った自分の命に感謝し、謙虚に造化にしたがうことの大切さ、いわば「ひなびのエコロジー」と呼べるような革新的な人生観を創唱します。「あるがままの芭蕉会」(前田利治『一茶の俳風』「志多良別稿」を参照)には、その真髄が記されています。

 よひの集ひは、炉をかこみてくつろぎてこそ御心に叶ひ侍りなん。又、宗門にては、あながちに弟子と云はず、師といはず(中略)たゞ四時を友として、造化にしたがひ、言語の雅俗よりも心の誠をこそのぶべけれ。

第二章 鄙びからヒューマニズムへ(結婚、第一子の死、文化十~十三年)






恋の予感


  庵の夜は餅一枚の明り哉


 文化十年十月十一日(西暦一八一三年十一月三日)の作か(『七番日記』)。

 このころの一茶はついに秋の大病が完治し、生まれ変わったかのような凄まじい創造力をみせます。『七番日記』のなかでも、この文化十年の作品数が最多で、一一七三句にのぼります。秋の病中の名吟「うつくしやせうじの穴の天川」以降、一茶はなぜか故郷に対して嫌みたっぷりの句をほとんど詠まなくなり、むしろ農民の質素な生活が「うつくし」いと感じるようになります。藤沢周平いわく「句柄が幾分丸味を帯びてきたようだった」(『一茶』、文春文庫、二七六頁)。僕が思うには、重病を乗り越えた一茶はともかく生きていることに感謝し、地方でこそ俳諧師を務めたいと、心を改めたからです。蕉風の「わび・さび」がうまく理解できなくても、自分には「ひなび」という新しい俳道が残されていると悟ったからでしょう。俳諧精神の支柱である「雅俗混交」を「雅鄙混交」に置き換えてこそ、新しい風雅が生まれるのだ、という使命感が一茶の内心に芽生えたのかもしれません。掲出句を詠んだ翌日、十月十二日には彼は「一茶社中」の連衆に囲まれて、芭蕉忌を修する席で次の名言を吐きます(前田利治『一茶の俳風』「あるがままの芭蕉会」を参照)。

 吹く松風の音もあるがまゝ、灯火のかげもしづかにて心ゆくばかり興じけり。実に仏法は出家より俗家の法、風雅も三五隠者のせまき遊興の道にあらず。諸人が心のやり所となすべきなん。

 質素な生き方を知る地方の俗人こそ、心を共にすれば風雅に達することができるという“雅鄙混交”のクレドです。

 掲出句に戻りましょう。庵には村人が搗いてくれた餅一枚しかありません。餅はのちに腹ごしらえとなるばかりではなく、囲炉裏の薄明かりを反射し、わずかに部屋の照明の足しにもなっています。この句は、翌朝一茶が俳諧仲間の前で勧める美学を具現しているといえましょう。「吹く松風の音もあるがまゝ、灯火のかげもしづかに」して生きること、その静謐で薄暗い鄙びの生活が詠われています。

        *     *

 谷崎潤一郎は『陰翳礼讃』のなかで日本文化における“翳り”の美学(床の間、蒔絵、囲炉裏、厠など)を讃え、西洋化によって明るくなり過ぎた近代日本の生活を批判しています。一つだけ、異見があります。「西洋化」といわず「アメリカナイズ」と述べた方が谷崎文豪の分析が的を射たと僕は思います。ヨーロッパでは現在も明るすぎた照明が“下品”あるいは“成金的”とよくいわれたりします。また、十七世紀フランスの画家、ラ・トゥールやオランダのレンブラントなどの静謐な明暗の描き方を鑑賞さえすれば、ヨーロッパにおける「翳りの文化」の深さをうかがうことができるでしょう。事実、ヨーロッパの古都は夜間、今も大変暗いです。シャンゼリゼ大通りのクリスマス電飾も、近年は品格と省エネルギーに配慮して段々と質素になって来ています(二〇〇七年からは発光管電球が使用されています)。

 いうまでもなく、現代では一茶の庵ほど薄暗い環境で生活するべきだと主張しても非現実的です。ただ、ほどよく「灯火のかげもしづかに」して、たとえば古き良きだるまストーブを囲み、その天板で餅などを焼いたりするのは味わい深い“鄙びのライフスタイル”ではないでしょうか。実は僕も今、この書斎にだるまストーブを置いていますが、冬の間は毎日のように様々な料理をストーブのやわらかな炎で温めています。今日はレンズ豆と骨付き豚肉の煮込みで、明後日までストーブの端っこに乗せて極小の火力で煮込む予定です。コンロでは、安全装置があるため、本格的な出汁作りに必要不可欠な“超弱火”の設定ができません。ストーブなら、ポトフーもシチューもスープも、無駄なガスを使わずに美味しく作れます。ぜひお試しあれ!


  むまさうな雪がふうはりふはり哉


 文化十年閏十一月十五日(西暦一八一四年一月六日)の作(『七番日記』『句稿消息』など)。

 「むまさう」は「うまさう」(旨そう)の音便的な変化による口語表現です。江戸時代では語頭の「う」の発音があまり好まれませんでした。芭蕉も「むめがゝにのつと日の出る山路かな」という名句を詠んでいます。事実、掲出句は従来一茶の“口語調の名句”として鑑賞されて来ました。そして、二回も繰り返される「ふうはりふはり」の擬態語が饒舌なあまり、批判の的にもなりました。一茶は、この句を江戸の俳友・成美へ送ったところ、強く叱られたことがあります。「惟然坊が洒落におち入らんことおそるゝ也」、すなわち“極端な口語調に走った芭蕉の最後の十哲・惟然のように駄洒落くさい俳風に陥るな”という酷評が返って来たわけです。加藤楸邨も『一茶秀句』のなかでこの句について「一茶独自の軽妙な口語的・俗語的発想」や「農村的性格」が表れていると認める反面、一茶が農民であるがゆえ「この惟然坊的なもの」から脱出できず、結局その後一茶句のこの特徴が「俳句性を弱めたことも見のがせない」と評しています。

 ここも僕は異見があります。なぜ日本の近代文学者は音韻的な工夫を詩作の長所の一つとして評価できないものでしょうか。素直に掲出句を何遍も繰り返して音読すれば、体で韻きの素晴らしさが実感できるはずですが…‥。

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 二〇〇六年十一月二十六日、フランス・ハイク協会主催

の「第二回フランス語圏ハイク・フェスティバル」に招かれ、パリで一茶についてお話をして来ました(http://www.manteaudetoiles.net/categorie-881842.html を参照)。講演中、フランスのハイク詩人の皆さんと「むまさうな」の句などを日本語で音読したり、上五・中七・下五の頭に置かれた「ウ」段の頭韻のやわらかなリズムや、擬態語の反復による“牡丹雪的なうなり”の印象を説明したりしました。講演終了後、「一茶の俳句による現代歌曲」のリサイタルが開かれました。若手作曲家シャルロット・ペレー女史(CharlottePerrey)による「一茶の水織音」という組曲の第一曲はやはり「むまさうな」の句に乗せられた、優美にして官能的ともいえる調べでした。その時、ソプラノの美声に揺られながら、僕は初めてこの句の深意を理解したような気がしました。

 雪を詠んだ一茶句のほとんどは、雪国での生活の辛さを描いているものです(五月号の「これがまあ死所かよ雪五尺」を参照)。しかし「むまさうな」の句だけ、まるで綿菓子をむさぼり食うような、至福の心境を詠っています。では、なぜ北信濃での生活の大変さを象徴する「雪」が突如、一茶にとって「旨そう」なものに変わってしまったのですか。このパラドックスは、一茶の内心に芽生えた“恋のようなもの”でしか説明できないと僕は思います。事実一茶はそのころ亡き母の親戚の知り合いである「菊」という女性との結婚を勧められたのです。一茶は五十二歳にして初婚、菊は二十八歳の美女。換言すれば、その時の一茶は「むまさうな菊がふうはりふはり哉」とでも唱えたかったに違いないでしょう。ともかく僕は、パリの「一茶の夕べ」で聴いたソプラノの美声のお陰で、この十七音のリフレインが恋の歌だと確信したのです。


  雪とけて村一ぱいの子ども哉


 文化十一年正月十一日(西暦一八一四年三月二日)の作(『七番日記』など)。

 前述の「むまさうな」の句と同様、ついに嫁を迎えることになった一茶の喜びの歌でしょう。この見解を裏付けるには、今回は一茶の日記、書簡、文学研究などに頼らず、大小説家・藤沢周平の直感を信じたいと思います。『一茶』のなかで、文化十一年晩冬のある夕方のこと、二之倉の村で縁談が進められた後の一茶の心境は次のように描かれています。

二之倉から遠ざかるにつれて、だんだんに嫁を迎える喜びがこみあげてくるようだった。

――人なみじゃな。これで人なみじゃ。(中略)

柏原に近くなって、村はずれの原っぱで子供たちが雪を投げて遊んでいるのを見ると一茶はさらに眼をほそめて、心の中で呼びかけた。

 掲出句を詠んだのは、そんな瞬間だったのではないでしょうか。一茶は、早春の息吹にふれて、長年心を蓋っていた氷雪がついに解けたような思いでした。子宝に恵まれるはずの、新たな人生の出発点に立っていたのです。山尾三省氏も『カミを詠んだ一茶の俳句』のなかで同様の解釈をしています。

あるべき一茶が、まさしく雪どけの奔流のように流れ出したのは、まことに自然の事柄であった。

 一茶にとって「雪」という恐ろしい神の代わりに、「子供」すなわち命の神が現れた瞬間であります。




鄙びの女


  雛棚や雇たやうに飛ぶ小蝶


 文化十一年二月二十一日(西暦一八一四年四月十一日)の作(『七番日記』)。

 この日、句日記に「家取立合」とあります。一年前に決着した相続交渉に従って、一茶はついに義理の弟と実家の間取りを半分ずつに分けて貰います。一茶の生母の親戚、後見役をつとめる宮沢徳左衛門などが立ち会っています。 実家は間口九間余、奥行二十三間と、二つに分けてもそれぞれに家族が住めるほどの面積はあります。

 その日の一茶作は二句、なぜか両句とも「雛」を詠んでいます。もしかすると、家の押入れの中を調べてみたら、懐かしい雛人形が出て来たのでは? 一茶は義弟と二人兄弟、男ばかりの家ですから、その雛は一茶の産みの母の形見だったりして?……彼は雛棚の小宇宙に引き込まれ、一瞬この男の世界の争い事を忘れます。おりしも人形たちの間に胡蝶が現れると、まるで人形の魂が蝶々のわずかな意思と通じ合っているように見えます。ああ、世の中もこのように軽やかにして、そして優しく人間たちが生きていれば、と一茶がつぶやいたのでは?

 一茶晩年の小動物詠の多さは有名です。なかでも「蝶」と「蛙」を詠んだ句は約三百句ずつ残っており、最多数を占めています。蝶の方はやはり女性的なイメージとして詠まれ、のちに幼いころの一茶の長女「さと」とよく取り合わせられる題材となってゆきます。掲出句に登場する「雛」も、一茶にとって幼い女の子のような、“小さな命”を象徴しているといえましょう。そして実は、そんな“小さな命”に対する一茶の眼差は、二十一世紀のわれわれが自然に対して持つべき姿勢を教えてくれるのです。

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 地球温暖化を初めて実証した研究者は、テキサス大学のカミーユ・パルメサン(CamilleParmesan)氏といわれています。彼女は、まだ学部生だった一九八三年の夏、チョウ類・ガ類研究家のマイク・シンガー氏という先輩に誘われ、カリフォルニアまで蝶の収集へ出かけたそうです。パルメサン女史いわく「あの夏、私は蝶と恋に堕ちて、彼とも恋に陥ちたのです」。一九九二年に二人はめでたく結婚し、九五年には彼女の博士論文が受理されました。

 その後、ヨーロッパの蝶の棲息地を調査し始めたパルメサン博士は大発見に至ります。二十世紀最後の二十年の間、ヨーロッパのチョウ類の約六十五%が北へ移動し続けて来たという結果が出るのです(Climatechange and biodiversity, Yale University Press,2005を参照)。つまり、蝶は気温の変化に大変敏感な動物であるため、他の生き物よりも一足早く地球温暖化を感じ取っていたということになります。のちにIPCC(気候変動に関する政府間パネル)レポートの執筆者となったパルメサン教授は、蝶のみならず、多くの両生類、渡り鳥、ペンギンなどの絶滅の可能性を指摘しました。

 気候変動に敏感な動物の場合、たとえ〇・一度の平均気温の上昇でも、すぐ北の地方へ移動しなければなりませんが、都会や海や山があったりして、新しい環境に対応できないことが多いといいます。そのため、気温変動に最も弱い生き物が先に滅び始め、そのうちに地球全体の生態が乱れ、人間(農業、漁業、日常生活など)にも多大な影響が出るとパルメサン教授が警鐘を鳴らしています。

 いずれは日本でも蝶や蛙がほぼ全滅し、たとえば小動物を哀れんだ一茶の名句の数々を読んでも、僕らの子供たちは何の実感もわかないと言うようになるかもしれません。 IPCCのレポート(http://www.ipcc.ch/pub/nonun/TAR_

SYR_SPMJP.PDFを参照)によると、二〇五〇年まで、地球の平均気温は少なくとも一九九〇年よりもセ氏〇・八度、多くて二・六度ほど上昇すると予測されています。後者の場合は人類の生存にも非常に深刻な影響が出るそうです。僕はその時、もし生きていれば八十二歳です。自分の子供たちに恨まれるような将来を残しながら人生の幕を閉じたくありません。


 白水が畑へ流て春の月


 文化十一年早春(西暦一八一四年春)の作か(『七番日記』)。

 句日記では掲出句の上に「正月二日」と記されています。ただ、二月の章と三月の章の間に挟まれているので、確実に創作時期を断定することが難しいです。おそらく、一茶が引越しの準備などで忙しかったころの作でしょう。まだ亡き母の実家で部屋を借りていたので、そこで平和な家族光景を覗いたりして、掲出句を詠んだのかもしれません。「白水」とは米の研ぎ汁のことを指します。しっとりした、ある朧夜のことです。信濃の月は畑や水田に映されて、厨から流れ行く研ぎ汁を照らしています。こうやって毎晩、お米の糠の一部が土に還り、栄養となり、翌年の農作を培ってくれるのです。近世村人の生活はまさに循環型のライフサイクルに支えられていました。家から出る廃棄物はもちろんオーガニックなものばかりで、ほとんどは肥料に使われていました。洗濯の洗剤も、灰や土や木の実で間に合っていました。

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 先日、パリ郊外にある兄の家を訪れた折、洗濯機の中に不思議な木の実を見つけました。義姉のマリ=ピエールに訊くと、「これは、今フランスの若い女性の間で流行っている、昔風の洗剤なの。noixde lavageなんです!」と返って来ました(http://www.azimuts-art-nepal.com/を参照)。

 物はナツメッグほどの大きさの木の実で、四個から六個を洗濯機に入れると合成洗剤と同じようにシミがきれいに落ちて、値段もずいぶん安いとのことです。義姉の使う物は原産国がインドですが、インターネットで買うとフェア・トレード(原産国の通常の給料水準の一・五倍を農家に支払い、運送も環境に配慮した)という基準が保障されているといいます。それまで僕はマリ=ピエール姉に対して、のんきに生きる“若きマダム”というイメージがありましたが、その時の彼女の一言はなかなかパンチが効いていました。「そうよ、グローバリゼーションだって、かならずしも環境と矛盾しないわ。やり方次第よ!」


  時鳥俗な庵とさみするな


 文化十一年四月十日(西暦一八一四年五月二十九日)の作(『七番日記』)。

 「さみするな」(褊するな)はここで「あなどるな、けなすな」を意味します。優雅な鳴き声を放つ野鳥の代表格「ホトトギス」が飛んで来ても、一茶のみすぼらしい庵ではあまり絵にならないが、それでも嫌な顔をしないでね、という意味の自嘲的な句として解釈できるでしょう。たしかに信州では春が来れば、市街地でも様々な鳴き声が響き渡ります。僕が借りている長野市内の古民家の庭にも、毎年同じカッコウがやって来て朝から晩まで朗らかに縄張りを守り続けています。しかしここ二、三年、地球温暖化のせいでしょうか、そのカッコウは涼しさを求めて二週間も経たないうちにさっさと飯綱山へ飛んで行くのです。

 さて、掲出句がもつ、もう一つの意味に触れましょう。この句の翌日の欄に「妻来」とあります。そう、このホトトギスは実は、一茶の新妻「菊」のことを指すのです。このころの句日記は一週間ぐらいもっぱら「時鳥」や「閑古鳥」という題材が続きます。西暦では五月末に当たるので、実際にその鳥たちの声が聞こえてもおかしくありません。しかし鳥たち以上に、一茶の目に焼きついていたのは、二十四歳年下の、美しすぎるほどの花嫁・菊だったのです。

 彼女は隣村・赤川の常田家の娘で、米穀取引を兼ねた大きな農家で育っていました。そうはいえ、彼女も一茶と同じ、北信濃の百姓でした。一茶の生活ぶりを軽蔑するわけはありません。彼女の自然の振る舞いと気取りのなさに、一茶は惚れてしまいました。彼は、十四歳から五十歳過ぎの帰郷まで、江戸の下級女郎と遊んだりはしましたが、同郷の純情な娘と付き合うのは初めてだったでしょう。江戸の女にとって、田舎の生活は卑俗なもので、軽蔑すべきものであります。しかし菊にとっては、それが当たり前の、謙虚な生き方なのです。そんな新妻の優しさに触れて、一茶はきっと「鄙びの女」の魅力を見直したに違いありません。手の届かない「雅な姫」でもなく、田舎者をあなどる「下町の遊女」でもなく、「鄙びの女」という未知の女性のタイプがありました。一茶にとって、信州の花嫁は珍しい野鳥以上に麗しく、そして初々しく見えたのです。(実は僕も、昨年暮れ、北信濃・須坂出身の女性「とよ」と結婚致しました。彼女は「菊」と同じように、四月に、鳥たちと共に、僕の家に引っ越して来たところです。僕も、一茶のように妻から穏やかな信州の“鄙びた生活”を学んでゆきたいと思います……。)




五十の恋


我星は年寄組や天の川


 文化十一年七月六日(西暦一八一四年八月二十日)の作(『七番日記』)。

 一茶が二十四歳年下の新妻と結ばれてから初めての七夕祭、いわば“恋の祭”(今でいえばバレンタイン・デーのような日?)を迎えています。結婚した当初から彼は自分の高齢(五十一歳)についてコンプレックスを抱いていました。当時の真蹟に「五十聟天窓をかくす扇かな」というビビッドな自嘲句も残っています。掲出句はもう少し軽く興じた詠みっぷりが朗らかです。我は、青く輝く彦星のような若々しい夫ではありませんが、「年寄組」の星、たとえば銀河の端っこで瞬くような、赤みを帯びたような古い星でも結構だ、という句意が一茶らしいですね。

 大気汚染もなく、街灯などの無駄な明かりもない近世信濃の村では、空が晴れてさえいれば毎日のように天の川を眺めることができたでしょう。そして一茶のように、星の様々な色や輝き方を観察すれば、星が年を取ってゆくという科学的事実を直感的に解ることもできたはずです。澄んだ空の下で生活していた近世の日本人、とりわけ村人たちはわれわれ現代人よりもはるかに広い視野で世界を見ていたのではないか、という気がします。芭蕉も信濃の隣にある越後で「荒海や佐渡によこたふ天川」を詠みましたが、これほど壮大な景を包括した句作は近・現代俳句ではほとんど見られなくなったといえるでしょう。客観写生、それも細かい花鳥諷詠重視の時代に入ってからは、日本の俳人の視野がずいぶん狭くなったといえるのではないでしょうか。

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 たびたび思うことがあります。それは、たとえ地球温暖化を抑えることが不可能だったとしても、あるいは手遅れだったと判明したとしても、万国が一緒になって地球全体の将来を考え始めたのは決して間違いではなかったということです。というのは(洒落た言い方をすれば)「エコロジーはえこひいきの逆」ですから。国籍、人種、宗教など、従来の狭い価値観で人類の歩みを考えるのではなく、同じ惑星の仲間として“地球的意識”をもつことこそが、環境保護の絶対条件であります。

 初めて人間の手によって地球は危機に直面していますが、一方ではわれわれ人間は素晴らしい教訓を引き出すことができました。初めて「地球は一つだ」と実感できたのです。いや、初めてではないかもしれません。一茶や芭蕉のような、産業革命以前の人々は、清澄な星空を仰いでいた時など、おのずと地球的な、大らかな物の見方をもっていたのではないでしょうか。

江戸〳〵とエドへ出れば秋の暮


 文化十一年八月下旬(西暦一八一四年十月中旬)の作(『七番日記』)。

 帰郷永住を決意し信州に住み着いてから二年、一茶は再び江戸へ向かい、挨拶回りの旅に出ます。八月二日に善光寺を出て、戸倉、小諸、碓氷峠、大宮などを経由し、ついに十六日の夜には下総の流山に到着します。二年前の時は、一茶は吹雪にもかかわらず、逆の道程をわずか七日間で歩いていました。今回はその倍以上かかります。一日平均四十キロという歩調はなぜか一日二十キロ以下に落ちてしまいました。四十九歳と五十一歳の体調の違いでしょうか。それとも、後ろ髪を引かれる思いで愛妻を里に残し、江戸の面倒な人付合いに巻き込まれるのを恐れているからでしょうか。後者でしょう。

 ただ、一茶は、信州の俳諧師として箔が付くためにも、きちんとした江戸俳壇引退記念集の刊行が必要不可欠だと知っています。江戸俳壇の大家で、彼の最後の庇護者である夏目成美はもはや六十六歳、最近は体調が衰えてきました。帰郷以降、一茶が成美に文通でお願いしてきた自作の添削も、このごろはほとんど指導をしてくれなくなりました。とにかく成美が生きているうちに、序文を賜り、引退記念句集『三韓人』を江戸で上梓した方がよいのです。つまり一茶は、面倒な出張で上京した“営業マン”、そんな気分で八月十六日、下総地方の夕暮れを眺めています。加藤楸邨(『一茶秀句』)いわく「この『秋の暮』は心の風景でもある」。たしかに。しかし、日本詩歌では本来どちらかといえば都人が僻地を訪れ、寒村で「秋の暮」の寂しさを堪能することになっています。芭蕉は「此道や行人なしに秋の暮」を詠んだり、『おくのほそ道』で敦賀湾の「浜の秋」の夕暮れを味わいながら源氏の流謫地「須磨」へ思いを馳せたりしました。やはり一茶はここも中央文化の伝統的美意識を覆しています。「江戸だって冷たい町だ。頼れる人もいなければ、江戸の秋の暮こそ、寂寞とした風景だ。ここまで歩いて来た意味があったのか?」と、一茶は都会人たちへ“田舎者の意地”を投げ掛けているようです。

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 江戸時代、陸上の交通手段といえば歩行、乗馬あるいは駕籠しかなかったため、人々は無駄な移動を慎み、あらかじめ道程の効率を確認してから出かけていたのです。一里という単位はたいてい人間が準備もなく直ぐ歩いて来られる程度の距離という意味で考えられていたそうです。今、自転車でしたら、六キロぐらいは楽に走って来られる範囲でしょう。実は、先進国では道路交通の三分の二が六キロ以下の移動からなるといいます。そのすべてを自転車、あるいは歩行で行えば、二酸化炭素排出の十五%を減らすことができるという単純計算が成り立ちます(二酸化炭素排出の約二十五%は道路交通が原因ですから)。

 ところで僕も、毎週金曜日、リュックサックを背負って自転車で一週間分の買い物をしに行きます。僕は学生時代をパリで過ごしたためか、若いころは自分の車を持つ必要性を感じないで、結局運転免許を持たないまま日本に引っ越して来ました。今は長野市内のほとんどの移動は自転車に頼っています。しかし、現代日本社会で気に入らないことがあります。それは、自転車使用者に対する冷たい眼差です。オランダなど西欧の国々では自転車で通う人々は環境を守ってくれているということで、皆から誉められ、その公民道徳が称えられます。一方日本では、二輪駐車場が不足し、自転車専用レーンもほとんど存在しません。また、これは日本に限らないでしょうが、車社会であるアメリカの文化的影響が原因か、それともコマーシャルの洗脳効果によるものか、多くの現代人は高級車を持つ人間に対して異様な敬意を払うのです。特に女性は……。やはり、二酸化炭素排出を減らすには、まず女性が抱く男性像を変えなければならない、といっても過言ではないでしょう!



我菊や形にもふりにもかまはずに

 文化十二年九月十三日(西暦一八一五年十月十四日)の作(『七番日記』)。

 普通に読めば、この句は単に信濃で咲く菊花の素朴な美しさを軽く称えたものと思えるでしょう。派手に咲く江戸菊などの珍種よりも、形振りも構わず里山で開く花の方が可愛い、という句意が成り立ちますね。しかしこの句は見事な“二重写し”の構造をもっています。実はこの日、一茶は信州におらず、江戸に着いたばかりなのです。翌日の日記には「おきく赤川ニ文通」とあります。一茶は赤川の実家にいる妻・菊へ手紙を送り、きっとこの句を添えたものでしょう。「おきく」は田舎娘らしく大変な働き者で、明るくて、いつも自然体でいて、一茶にとって世界で最も可愛い存在だったに違いありません。一茶は前年も八月から十二月まで、江戸俳壇引退記念句集『三韓人』の出版のために上京し、愛妻に秋の農作を任せました。そして今年もまた九月から十二月まで上京し、江戸の名俳人・鈴木道彦などに別の刊行物のための寄稿を依頼しなければなりません。今度は自分の句集のための依頼ではなく、長沼(現在の長野市)の門人・佐藤魚淵に頼まれた“営業出張”なのです。裕福な門人である魚淵はどうしても江戸で俳書を出版したいと言い、一茶に代編と企画を任せました。

 本当はそのころの一茶は、「おきく」のことで頭がいっぱいです。そう、彼女はついにお腹に子供を宿したからです。実は一茶は数か月前から日記に妻の月経の日をまめに記しています。最後の記述は七月十日の「妻月水」で、その一か月半後、妻の悪阻を匂わせるような記載があります。八月十六日の日記に「妻ニ用弓黄散」という記述が目立ちます。「芎黄散」は頭痛によく効く薬として知られています。つまり、一茶が江戸へ出かけたころには、妻の月経はもはや一か月遅れていて、菊の悪阻が始まっていたのです。一茶は、江戸で掲出句を詠んだ時、愛妻・菊への感謝の気持をいつになく感じていたのでしょう。形振りも構わないでいつも穏やかに振舞う“田舎娘・菊”のお陰で、一茶は初めて父になり、五十二歳にして「命を伝える」という人間の最も深い本能を満たすことになります。




ヒューマニズム



  瘦蛙まけるな一茶是に有

 文化十三年四月二十日(西暦一八一六年五月十六日)ごろの作(『七番日記』『句稿消息』『一茶句集・希杖本』)。

 名句中の名句です。日本の一般国民の間ではもっとも人気のある一茶句といえましょう。現在全国で建てられている一茶句碑約三百六基のうち、十四基もにこの句が刻まれていて、最多数を占めています(里文出版『一茶と句碑』を参照)。次位は、四基に刻まれた「ゆうぜんとして山を見る蛙哉」などが見られますが、なぜかこの「瘦蛙」は絶大な人気を集めています。金子兜太氏が書いているように、「有名な句だが、内容は、軽い呼びかけ、いささか戯れ気味の呼びかけととるべきものだ」と、俳人の間ではやや軽視されている句ですが……。本当のところ、一茶はここも“二重写し”の句作を嗜み、蛙と同時に人間を詠んでいるのだと僕は思います。そして日本の一般国民がこの句を庭の碑に刻みたくなったのも、単純そうな句意の奥に潜む深い人間愛を感じ取っていたからでしょう。

 『七番日記』の前書によると、時は四月二十日、「蛙たゝかひ」を見た後の作です。『一茶句集・希杖本』では、一茶が信州ではなく、はるか「むさしの国」で「蛙たゝかひ」を観察して詠んだものという説も記されています。ちなみに「蛙戦い」とは、金銭をかける遊びもありましたが、ここでは単に蛙が群集して生殖行為を営んでいる光景を意味するのでしょう。普段は数匹の雄が一匹の雌に挑みかかるので、弱い雄は子孫を残すことが許されません。掲出句の深意はそこにあります。一茶は子孫を残せない病弱な蛙を哀れみつつ、実は自分の姿、そして自分の息子の姿を哀れんでいたのです。

 事実、少し前の四月十四日、愛妻・菊は最初の子を産んだところでした。『七番日記』をみると「瘦蛙」の句の直後、「小児の成長」を喜ぶ前書や幼子を描いた句々が並びます。たとえば、「千太郎」と名付けられた長男に一茶が初めて子供服を着せようとしたら、意外と我が子の成長が早く、つんつるてんに見えたというエピソードが詠われています。


  たのもしやてんつるてんの初袷

 しかし、本当は千太郎は決して「たのもしい」といえるような、元気な赤ちゃんではありませんでした。親心というものは、どの時代でも、どの国でも同じです。我が子が病弱でも、その現実を見たくありません。そして、五月十一日の早朝、一か月足らずで千太郎は発育不全で亡くなります。「瘦蛙」は不運にも負けてしまいました。一茶が初めて愛した子供でした。

 一茶の場合、蛙などの小動物に対する慈愛は、現代にみるような単なる動物愛護的なセンチメンタリズムによるものではないといわざるを得ません。一茶はもちろん小動物を可愛く思ってはいましたが、それ以上に自分の子という人間を愛していたのです。彼は、猛烈な父性本能を持っていたからこそ、胡蝶を見ては少女的な可憐さを愛でたり、蛙を見ては男子的な腕白を称えたりしました。一茶は蝶や蛙などを擬人化しましたが、その小動物を通じてあくまでも人間的なものを詠もうとしていたのです。人間の中の最も素朴で無我無心の美しい部分を、小動物という題材に託して詠っていたといえます。換言すれば、一茶のエコロジー精神はまず、人間愛にしっかりと根付いていたのです。

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 一九八〇年代以降、イギリスやアメリカを中心に、なんと人間よりも動物の生命を尊重すべきと掲げる“エコロジー的原理主義”が現れて来ました。イギリスで発祥したA・L・F(AnimalLiberation Front=動物解放戦線)やE・L・F(EarthLiberation Front=地球解放戦線)あるいはアメリカのEARTHFIRST!という組織がその究極の説と「戦闘方法」をすすめています。たとえば、A・L・Fの会員はたびたび覆面のまま病院や研究室に侵入し、実験用の小動物をケージから放し、施設に火を付けたりしています。「エコ・テロリズム」と名付けられたその様々な行為は次第に拡大し、今、欧米の情報機関は「エコ・テロリズムの9・11」を真剣に恐れているといわれています(Jean-ChristopheRufin, Le parfum d,Adam, Flammarion, 2007を参照)。

 まるで、二十一世紀まで産業革命の先進国として自然を虐げて来た国々の人間が懺悔し、極端に逆の方向へ走っているという感じがします。しかし、あるべき「エコロジー」とは、人間が快適に、しかも末長く地球環境と調和して生きていられるための運動ではないでしょうか。そもそも人間の存在も、いや、人間の存在こそが地球の発展における偉大な達成であると考えるべきでしょう。

 晩年の一茶のように、まずは人間を、とりわけ子供を好きになればよいのです。人間の中の最も美しい部分、それは子供がもつような素朴な感性を目差せばよいのです。そうすればおのずと、動物を思いやったり、植物を大切にしたりする心がわれわれの胸に再び芽生えるに違いありません。エコロジーは人間を忘れたような原理主義的な戦闘になってはいけません。エコロジーはまず、人間愛なのです。

  寝返りをするぞそこのけ蛬

 文化十三年七月八日(西暦一八一六年八月一日)の作(『七番日記』)。

 七夕の翌日、西暦では八月一日、つまり一年でもっとも暑く、様々な昆虫が伝染病を運んだりする時期です。一茶は前々日の日記に「夜大熱 度々雨ニヌレタル故ナラン」と記しています。本当は、一茶がかかった病気はただ雨に濡れたための風邪ではなく、羽斑蚊が運ぶ「瘧」、今でいうマラリアという重病なのです。十六日まで高熱が続き、一茶は門人の家や自宅を転々として、何とかして少しずつ病を治しました。そのころの日記に、病人のうわ言を思わせるような不思議な記述があり、死にかけた幼児が息を吹き返したという噂話などが乱筆されています。やはり、千太郎の死の悲しみはまだ心の奥底に残っていたようです。そんな時、寝たきりの一茶は、同床のキリギリス(コオロギの古称)に気遣って一句をつぶやきます。高熱にもかかわらず、彼は寝返りでコオロギをつぶすまいと、丁寧に呼びかけています。

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 地球に共生するすべての生き物を総括的に考えれば、地球そのものが独立した生命体であるとみてもよいでしょう。そう考えると、地球温暖化の恐ろしさが明らかになります。事実、あらゆる生命体にとって、たとえ一度の体温上昇でも内臓の機能に多大な影響が出るのです。人間の場合、三十七度が三十八度になっただけでも仕事を休まざるを得ません。地球という複雑な生命体の場合は、全体の年間気温の平均がわずか十五度ぐらいです。もし今世紀末に最大予想の六・四度も上昇したら、マラリアどころの高熱ではありません。致命的な大熱というべきでしょう。

  ふしぎ也生た家でけふの月

 文化十三年八月五日(西暦一八一六年八月二十七日)の作(『七番日記』)。

 江戸時代の農民にとって、生まれた家で月見を楽しむのはむしろ当たり前のことでした。しかし一茶にとって「当たり前」が「ふしぎ」であり、この上なくありがたい出来事に感じたとのことです。母の死、父の死、相続争い、最近では長男・千太郎の死にもかかわらず、今、妻と共に我が家で満月を仰いでいます。そして、千太郎の死を乗り越えて、ふたりの絆はさらに強くなりました。

 江戸時代は乳幼児の死亡率が高かったからといって、我が子に先立たれる苦しみが低かったわけではないと僕は思います。どの時代も、どんな環境におかれても、我が子ほど可愛いものはありません。ただ、様々な不幸(病気、災害、身分差別など)を頻繁に体験していた近世の村人は、とりわけ一茶のような不運な人は、不幸の合間に訪れる小さな幸せを心から味わっていたのでしょう。物欲が叶った時よりも、人と人の縁、または人と自然(動植物や自然の原理である“神”など)との縁を実感した時の方が本当の幸せを味わうことができると、彼らは知っていたのです。 この句を読むと、アウシュヴィッツで両親を亡くしたフランスの精神科医B・シリュルニック氏の言葉を思い出します(BorisCyrulnick, De chair et d’âme, Odile Jacob, 2006)。

幸せを見つけるために、不幸になる危険を冒さなければなりません。幸せになりたいのであれば、どんなことがあっても不幸から逃げようという姿勢をとるべきではありません。むしろ、どうやって、そして誰のお世話になって、不幸を乗り越えることができるかを探るべきでしょう。




生命(いのち)の尊さ



一尺の子があぐらかくいろり哉

 文化十三年八月十九日(西暦一八一六年九月十日)の作(『七番日記』)。

 掲出句について、まずは素朴な疑問がわきます。身長が一尺に見えるほど小さな赤子は本当にあぐらをかくことができるでしょうか。また、そのころの一茶宅には、もはや赤ん坊はいなかったはずです。三か月も前、一茶の最初の子が生後一か月たらずでこの世を去りました……。やはり、この句は幻視的なものを詠んでいるといわざるを得ません。一瞬、亡き長男・千太郎の姿が一茶の目な裏を過りました。「いた! 春のころと同じところに、いろり端にいた!」と、一茶は妻につぶやいたのでは? すると菊は「まぼろしや、まぼろしや、父っちゃん」と、優しく返したのでは? 秋になって、再びいろりが、そして人肌が恋しくなるこのころ、幻でもいいから、一茶は息子の姿を見たかったのでしょう。今生きていたら、きっとあぐらをかくことができたのです……。一茶は妻の横で身を暖めながら、「家族」の夢をみたかった、そんな切なくて、温かな一句です。

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 フランス語で大好きな言葉があります。それはFoyer(ホワイエ)といい、意味が二つあり、「家庭」と「炉」の両方を意味します。つまりフランス人にとって、家庭はまず暖炉があって、それを囲んで家族愛が育つ、というのが太古からの常識なのです。フランスのほとんどの一軒家は、当たり前のように石暖炉と煙突が付いています。隣の農家に薪を注文したり、それを地下で乾燥させたり、薪を割ったりするのは面倒だと思う人もいますが。僕が小学生のころ、石油が非常に安い時代だったので、クリスマス・イブ以外はほとんど暖炉を使わず、いつも中央暖房を焚きっぱなしにしていました。しかし中学生になったころから我が家の習慣が一変し、冬期は毎晩暖炉を使うようになりました。というのは、オイル・ショック以降、そして最近ではさらに暖炉の優良さがフランスで再認識されてきたからです。木材こそ、安くて環境に優しいエネルギー源だと見直されました。事実、薪の需要が増えると、森林の整備がすすみ、病んでいる木や朽ちた枝などが減り、雑木の発酵による二酸化炭素の排出が少なくなるのです。その上、木材は植物性燃料のため、バイオ・エタノールと同様、光合成で出来た酸素と燃焼で生じる二酸化炭素のバランスが取れており、地球環境を全く悪化させません。

 日本の江戸時代においてもフランスの現代においても、やはり木材を使った「炉」の温もりは家族を守り、そして地球を守ることができたのです。


又ことし死損じけり秋の暮

 文化十三年八月二十一日(西暦一八一六年九月十二日)の作(『七番日記』)。

 以前「寝返りをするぞそこのけ蛬」の句に触れた際書きましたが、七月上旬、一茶は「瘧」(マラリア)を患い、十日ほどで自然に回復しました。また、初夏には長男の突然死がありました。つまりこのころの一茶は、自分だけが生き延びたことが奇跡ではないかという気持を抱いていたのです。この日、日記の上の欄には「四交」と記されています。一日の間に四回も“夫婦の房事”を行ったのは、五十四歳の一茶にとって誇らしい精力だったといえるでしょう。金子兜太氏もそれに気付き、「おもしろいことに、この種の数字はこのときまでは全くといってよいほどになく、ここにきて熱心に記録された」(『一茶句集』、岩波書店、一九九六)と述べています。しかし金子氏は記録の理由について探っていません。僕が思うには、このころの一茶の“凄まじい性生活”は、掲出句にみるような「死に対する恐怖」で説明ができるのです。人間は必ず、身近に死と向き合った後、生命を伝えるという本能が強くなり、性欲が増大するからです。戦後のベビー・ブームも、同時多発テロ直後のニューヨークの出産率の上昇もそれを実証しています。

 一茶の場合は、長男が亡くなった直後、一旦は落ち込んで大病を患いましたが、その後はやはり猛烈な性欲をみせるようになります。八月八日は「夜五交合」、十二日は「夜三交」、十五日は「夫婦月見 三交」、十六日から二十日までは毎日「三交」と日記に記されています。そして掲出句が詠まれた二十一日は「四交」と書かれていて、それ以降この種の記録が途絶えるのです。事実、同日記には八月六日の項に妻の生理(「キク月水」)をも記録しているので、一茶はやはり生理から二週間後を“狙って”、意識的に性交を重ねたということが判明します。単に自慢のための記載ではありませんでした。死は突然やって来ます。この現実を突き付けられた一茶と菊は、いつになく我が子が欲しくなったのです。いつになく「命を伝えなければならない」という本能と、死に対する危機感を抱き、一日も早く第二子の顔を見たくなった、そんな切実な心境から掲出句が生まれたのではないでしょうか。

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 ハーバード大学心理学教授のダニエル・ギルバート氏(DanielGilbert)によると、地球温暖化対策の遅れの主な理由として、人間の脳の特徴が挙げられるといいます。霊長類の脳は急速にやって来る危機に対する反応が優れていますが、少しずつやって来るものなら、どんな大事でも恐怖をほとんど感じないという欠点があるそうです。たとえばさきほどの一茶も、吾子の急死を目の当たりにしたからこそ、突如時間の経過や死に対する恐怖を強く覚え、その結果猛烈な性欲をみせるようになったといえます。「又ことし」この惑星で生きていられるだけでも奇跡だと、それぐらいの危機感を持たなければ、人間はいつまでも地球の生命を救おうとしないだろう、といえるかもしれません。長い目で地球温暖化の問題を考えるにあたって、人間はまず自分たちの脳の弱点を克服しなければならない、ということでしょうか。


 霜がれや米くれろ迚鳴雀

 文化十三年十二月二日(西暦一八一七年一月十八日)の作(『七番日記』)。

 前書に「随斎旧跡」とあります。「随斎」とは一茶の最大の庇護者・夏目成美の別号です。成美の「旧跡」(住宅)といえば江戸本所(現在の墨田区)にありました。実はこの句、成美が六十八歳で病死した直後の吟であり、追悼句として広く知られています。棺の前で、一茶は思い出したのでしょう。かつて江戸で俳諧師を目差していたころ、たびたび食料が底をつき、この成美宅を訪ね、米などを何度も貰ったことがありました。今こそ故郷信州で認められるようになりましたが、そもそも一茶は十四歳から江戸へ奉公に出された、いわゆる“御信濃”でしかありませんでした。「椋鳥」とも呼ばれたりして、今でいえば“出稼ぎに来た不法移民”のような身分でしたか。しかしなぜか、夏目成美という名の裕福な町人はこの椋鳥の悲痛な歌声に心を動かされました。そして、一茶が単なる椋鳥ではなく、実に賢い小雀だと判明しました。以来、“高級鳥”成美は惜しみなく“信濃の雀”一茶を守り続けたのです。しかし、とうとう成美は亡くなりました。もはや江戸の一流俳人で一茶の世話をしてもよいと言う人はいなくなりました。

 実はこの冬、一茶は信州の門人に頼まれた俳書『あとまつり』の出版に向けて、わずかな人脈と衰える体力をしぼって、下総と江戸を歩き回っている最中でした。前年もその前の年も、同じように冬の間は愛妻を信州に残し、門人のために江戸で出版企画を進めていました。そのため今年は成美の訃報に接した時、折りしも江戸にいたので葬儀に加わることができました。ただ、それにより一茶は疲れ切って、体中に疥癬ができ、予定通り年内に信州へ戻ることはできませんでした。足の痒みが酷くて北信濃まで歩けそうもなく、翌年三月三日、妻きくへ感傷的な手紙を送り、足止めになったことを嘆いています。

 ついに七月四日、十か月ぶりに我が家に辿り着き、一茶はきくと再会します。事実、その後彼は一生信州を離れることはありません。信州の門人に出版の手伝いを頼まれても、江戸の“成美グループ”の最後の仲間に誘われても、彼は二度と江戸の石畳を踏むことはありません。信濃の雀はもはや、石畳に投じられた米粒をあさりながら、江戸の高級鳥に頼って生きるのは真っ平御免です。山里で自生する草の実でも探し、家族を増やしたいだけです。

 この七月、一茶の帰宅直後、きくは再び妊娠します。後に生まれた女の子は“ものを悟って欲しい”という願いを込めてさとと命名されます。実はその子のお陰で一茶こそが命の尊さを悟り、独自の世界観を完成させるのです……。




第三章 風土性の深化(北信濃定着、文化十四年~文政元年)







風土再発見



[]から児が声かける茸哉

 文化十四年八月八日(西暦一八一七年九月十八日)の作(『七番日記』)。

 一茶はこの秋、ついに信州に帰り十か月ぶりに愛妻きくと再会します。前年の冬、門人の出版企画の世話をするために上京したら、道中で疥癬を患い、結局翌夏まで江戸で足止めになっていたのです。一茶はこれから信州に落ち着き、家庭を築こうと一心に願っているばかりです。前年は一か月足らずで長男を亡くしました。今度こそ長生きをする子を授かりたいという心境を抱いて、五十四歳の秋を迎えます。掲出句は他人の親子愛を詠んでいます。一茶にとって、うらやましいほど幸せそうな光景だったに違いありません。幼子はおんぶをして貰いながら、母親と茸狩りを楽しんでいる場面です。

 「かか、かか、あれよ!」と子が言うと、母親は「あー、よくみえたねぇ」と褒めてあげて、立派な松茸を手にします(もちろんビニール袋ではなく、穴だらけの古びた笊で運ぶので、胞子が地面に散り、翌年の松茸の種が自然に蒔かれてゆきます)。近世信濃では、このように子供たちはおんぶをされるころから、茸の形や香を知っていたということが分かるのです。常に季節の物を、そして身近で採れた物を食べていたから、子供たちは自然の周期に合った食習慣、そして鋭い五感をもっていたといえるでしょう。

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 現代では、初秋の早松茸の繊細な香と、仲秋の松茸の濃い香の相違を知る子は、信州でも一人もいないでしょう。なににせよ今日の日本では、販売されている「松茸入り」の食品のほとんどは外国産の松茸のひと欠片を上に載せ、安い「松茸エッセンス」をふんだんに撒き散らしているのです。天然の松茸の香に比べれば、人工香料の方がはるかにインパクトがあって分かりやすいからです。たしかに天然の松茸の、あの控え目な香味を理解するには、長年の“食の教養”が要ります。そういえば、日本で販売されているジュースについても、いわゆる「無香料」のものが入手困難になっています。通常の缶コーヒーもしかり。天然のコーヒー豆の香ではなく、標準的な「コーヒー香料」の味が定着してしまいました。

 僕は比較文化論の授業で毎年、学生にバニラ香料と天然バニラ・ビーンズの入った小瓶を嗅がせますが、ほとんどの学生は本物のバニラよりも香料の方が「バニラらしい」と言います。その子供たちに「どんな味噌汁が好きですか」と訊くと、大半は「家の味噌汁よりも、コンビニの味噌汁の方が好きだ」と自認します。つまり今の日本の子供たちは、何百年も前から信州の農民たちが作ってきた合わせ味噌の複雑な味わいよりも、人工香料で復元された「標準的な味噌味」を好んでいるということになります。化学産業による人工香料の普及は、こっそりとそして日に日に、われわれの食文化を破壊しているのです。また、人工香料を含めた様々な化学物質は、ここ数十年、先進国の子供たちの健康にも多大な影響を与えているという事実が明らかになってきました。アレルギー、アトピーの急増やその他の免疫低下などは、野菜果物の農薬、加工食品の添加物、包装や洗剤に含まれた環境ホルモンの影響が原因として指摘されています。

 しかし、化学産業と農産物加工業のロビー活動もあり、日本や米国のみならず、欧州連合においても本格的な調査が行われているとはいえません。事実、先進国では男性の精子濃度は通常の値より半減しているという研究結果があります。このままの食生活では、僕らは豊かな食文化を失うだけではなく、健康も失い、命を伝えるための体の機能さえ失ってゆくのかもしれません……。

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 ところで、精子濃度については一茶は至って健康だったようです。というのは、彼が掲出句を詠んだころ、実は妻きくが再び妊娠していたのです。翌年の五月四日、長女さとが生まれます。陰暦の十か月と十日を引けば、懐妊が文化十四年七月上旬、つまり一茶が帰郷した直後であったと判明します。一茶が掲出句を詠んだ八月八日は、きくの月経がもはや二週間以上遅れていたはず。「来年の秋、われもこうして子供と一緒に茸狩りに出かけよう!」、そんな新たな希望が一茶の胸中に芽生えていたのでしょう。


そば咲やその白さゝへぞつとする

 文化十四年八月三十日(西暦一八一七年十月十日)の作(『七番日記』)。

 掲出句の成立過程を探ってみると、三句にわたる推敲が浮かび上がります。文化元年の作に「しなのぢやそば咲けりと小幅綿」の句があり、その十三年後(文化十四年八月四日)の作に「しなのぢやそばの白さもぞつとする」という類句が見つかります。そして数日後には、この「そば咲やその白さゝへぞつとする」に辿り着くわけです。

 つまり一茶は、十三年前の作品を改案するにあたって、題材を少し変えながら、主に音韻的な工夫(頭韻)を加えていったということになります。まずは中七下五で「そ」「ぞ」という頭韻を整え、その数日後は「そ」「そ」「ぞ」と、さらに頭韻を意識して推敲を重ねたといえるでしょう。事実、このころの句日記に、このように句の頭に位置する頭韻をもって五七五のリズムを浮かび上がらせようという推敲の跡が度々見当たります。もともとは「句頭韻」と呼ばれるこの手法は、民謡に著しく多いといわれています。やはり、晩年一茶の俳風は農事唄や盆踊唄などのリズム感を借りていたのです。掲出句では「そ」「ぞ」の繰り返しが寒々とした呪文的民謡のように響き、信州の冷え冷えとした秋風、いわば山の呼吸が聞こえるようです。

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 信州の山間では、夏蒔きの蕎麦の花が咲くころ、凄まじいほど急速に昼夜の寒暖の差が激しくなってゆきます。その三か月後、北信五岳(飯綱、戸隠、黒姫、妙高、斑尾)山麓のやせた土地で採れる蕎麦の実はなぜか格別に凝縮された風味が出ます。とりわけ、やや未熟な蕎麦の実を一か月早めに刈ると、青みを帯びた蕎麦粉が抜群のコシをもち、小麦粉などの繫ぎを使わなくても、腕がよければ十割蕎麦が打てるのです。いにしえから人間は北信濃の土地や気候の厳しさを理解し、それを高度な食文化に昇華させてきました。しかし最近、秋の冷え込みが不十分で新蕎麦のコシが減ったり、収穫不可になったりすることもあるそうです。

 「地球が温暖化するのであれば、その分、有名な農産物の栽培を北へ移動させればよいのだ」と時々聞きますが、残念ながら、人間が何百年もかけて自然と共に作ってきた「風土の味」というものは、そう簡単に動かせません。土や水の特徴、土地の日当たりやそこに存在する微生物、人間の知恵などが一つになってはじめて「風土の味」が生まれるからです。たとえばフランスのシャンパーニュ地方では最近、猛暑頻発のため、すっきりした味が作りづらくなったといいます。そろそろ南イギリスの気候の方が辛口のスパークリング・ワインに向くのではと言う人もいますが、南イギリスには残念ながら南東向きの石灰岩の崖もなく、ワイン職人の知恵もなく、シャンパーニュ特有の「ミネラル的な味」は絶対に現れないでしょう。もしいつか世界中の「風土の味」が消えたら、さぞつまらない地球になると思えてなりません……。


御仏と天窓くらべや菊の花

 文化十四年八月三十日(西暦一八一七年十月十日)の作(『七番日記』)。

 北信濃の里山にところどころ頭を出す野仏たちは、菊花ほどの高さしかなく、奈良や鎌倉の大仏の迫力に敵いませんね。しかし本当は、仏像なんか野花のようなかわいらしいもので充分なのではないでしょうか。世界中の人間はよく熱狂的な信仰に酔いしれて、巨大な聖堂を建てたりしますが、巨像よりも花一輪の方が仏性をもっているのでは?

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 そういえばその昔、南太平洋に浮かぶ孤島・イースター島の人々は神のために多くの巨像を作り続けました。島民は、いわゆる「モアイ像」の原石を丸木で転がして運んでいましたが、石像建立に夢中になったあげく、いつの間にか島の森林の木材が底をついたそうです。結局、鮪釣りのための丸木舟も作れなくなり、飢饉に襲われ、全島民が亡くなってしまったといわれています。この地球もまたイースター島のような孤島です。われわれにとって、逃げ場はありません。人間たちが「物欲」という名の偶像的盲信に酔いしれて、そのまま資源を無謀に使い続ければ、われわれもまた滅びてしまうかもしれません。『星の王子様』の著者・サンテグジュペリの言葉を思い出しましょう。「地球は先祖から頂いたものではありません。これから生まれてくるわれわれの子供から借りているものです」。




民衆性と民主性



木がらしや木[の]葉にくるむ塩肴

 文化十四年十二月二十一日(西暦一八一八年一月二十七日)の作(『七番日記』)。

 加藤楸邨が『一茶秀句』で書いた通り「物の乏しい辺鄙な土地では、草の葉や木の葉などに物をつつんだり、乗せたりする」という句意になっています。しかしこの句における一茶の姿勢は明らかに「辺鄙な土地」の生活をみくだしたのではなく、むしろ肯定的なものでしょう。北信濃では、凩が運んでくれる椿などの葉っぱをそのまま包装として使えるのです。塩魚のような保存食に頼る山国ではありますが、木の葉は(現代でいう)殺菌効果もあるし、江戸の優雅な笥や破籠よりも気楽でよし、と一茶が詠っているように聞えます。そして、使った葉っぱを畑に捨てれば、いい肥料にもなります、と……。

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 昨年のクリスマス前、友人からいわゆる“エコ・バッグ”を頂きました。きれいに畳むと僕のセカンド・バッグの財布の横にすっぽりと入り、広げるとワインを四本も運べるほどの優れものなのです。模様は緑色の葉っぱが描かれているので、我が家では“エコ・バッグ”と言わず、(一茶の掲出句に因んで)“木の葉ちゃん”と呼んでいます。とにかく、木の葉ちゃんのお陰でこの一年、僕は店で一枚もビニール袋を貰ったことはありません。ビニールの原料である石油をどのくらい節約できたか分りませんが、平均的なレジ袋一枚が石油十八・五mlから作られているというので、そこそこの量でしょう。何より、プラスティックのゴミの量が減って良かったです。レジ袋一枚が分解して土に返るには、四百年もかかるといわれています。また、もし「可燃ゴミ」として処分した場合、焼却施設からダイオキシンという猛毒が排煙されるのです。プラスティック包装は安くて便利なものですが、最終的には厄介な廃棄物となってしまいます。ここも、問題の解決の一部は、江戸時代の農民のように簡単な包み方で間に合わせるという“鄙びの文化”にあるでしょう。商品を選ぶ時も、なるべく簡素な包装の品物、あるいは(再生可資源である)紙や木材などに包まれた品を選べばよいでしょう。そうはいえ、今さら完全にプラスティックと縁を切るのは非現実的です。もう一つの解決法として、逆に最先端のテクノロジーを駆使した、プラスティックを再び石油に戻すという新しい技術の開発が進められているそうです。つまり、二十一世紀のエコロジーの鍵はおそらく、一茶晩年の作品にみるような「鄙びの文化」の再評価と同時に、最先端の科学の適切な利用にあるといえましょう。換言すれば、「エコロジーテクノロジー」。 + ひなび = 


正月やヱタの玄関も梅の花

 文政元年正月十日(西暦一八一八年二月十四日)の作(『七番日記』)。

 この日の日記には「吹雪 観国エド立 古間迠送」とあります。俳号・中村観国といえば、当時の柏原本陣の総領、四年前に兄・桂国の後を継いだ幕府役人です。この正月、彼は幕命に従い江戸へ赴き、隣村・古間まで一茶に見送られます。観国は一茶より一歳年下の五十五歳です。以前から家族ぐるみで俳諧を嗜み、故に百姓である一茶との親密な付き合いが続いています。そして実は、二人の“友情関係”にはもっと複雑な要因があります。そもそも一茶の妻「菊」は婚前、長らく中村本家で働いていました。その時、菊と観国との間には“ただならぬ関係”があったのではと、柏原で噂が流れていたのです。結婚一年後の夏、その噂を聞いた一茶は妻の過去を恨み、数日間激しい夫婦喧嘩が続きました。婚前のことを問い詰められた菊は逆に怒り、夕暮れの強風や雨にもかかわらず隣の川まで洗濯へ出かけたり、庭のボケの木を引き抜いたりしたと、『七番日記』で細かく記されています。結婚したばかりの一茶は五十一歳とはいえ、女心というものを理解していませんでした。たしかに、田辺聖子氏が小説『ひねくれ一茶』で描いたように、菊女は「きゃんきゃら」(おてんば)なところがありました。そうはいえ、一茶には妻の婚前の恋を妬む権利などはありません。二十四歳年下の、働き者の美女を嫁に貰えたのは奇跡のような幸運でした。彼女が本陣の旦那様と“何か”があって、そのせいで婚期が二十八歳まで遅れたからこそ、一茶のような老人のところへ来てくれたともいえます。ただ、一茶が許せなかったのは、むしろ観国の態度だったのではないでしょうか。高い身分を利用してお手伝いに来た乙女と関係をもち、その後は黙って一茶に“妾を譲る”ような行動が許せなかったのでしょう。

事実このころから一茶は堂々と侍や大名、すなわち高い身分の人物を諷刺するような句を多く吐くようになります。「武士に蠅を追する御馬哉」(文化十三年)、「づぶ濡[れ]の大名を見る巨燵哉」(文政三年)がその例です。同時に、(今まで何度も述べたように)一茶は農民の生き方を再発見し、次第にその鄙びた生活を称えるようになります。そして、掲出句のように「エタ」という身分を負う人々を励ますかのような句も、晩年には二十句ほどみられます。例えば「エタ寺の桜まじ〳〵咲にけり」(文化七年)がその類でしょう。つまり掲出句は社会的な意味があり、「自然に咲く花々は世の中の差別を知らないぞ」という、百姓俳人ならではの切実な思いに導かれた吟なのです。一茶は本陣の旦那様を送りながら、「エタ」の庭先に咲き誇る梅花を発見し、その時、愛妻「菊」に対する過去の侮辱を思い出したのではないでしょうか。

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 江戸時代に、一茶と同様、身分制度が無意味であるという真理を高らかに告げた思想家がいます。それは、『人間不平等起源論』で知られるフランス革命の父・ルソーでもなく、実は日本にも、そしてルソーよりも早くから独自の“近代民主主義的思想”を唱えた天才がいます。一茶が生まれた一七六三年(宝暦十三年)の前年に他界し、終生幕府の反感を買ったという思想家・安藤昌益です。しかも昌益はフランス十八世紀の思想家と違って、町人(ブルジョアジー)に民主主義の夢を託したのではなく、農民を中心とした平等社会への改革を考えたのです。昌益いわく、

「自然の人間は直耕、直織する。(中略)士を上に立てたのは乱の用、農を下にしたのは天の責めを蒙る誤り」(野口武彦現代語訳『安藤昌益 統道真伝』、日本の名著十九、中央公論社、二七七~二七八頁による)。

 近年「江戸のエコロジスト」とも呼ばれた安藤昌益は、『自然真営道』のなかで一切の人の農耕による生き方を説き、地方ごとの自然環境に合った農業を進め、身分や男女の差別を廃止するという哲学を書き留めました。昌益の書が一茶の目に止まった可能性は極めて低いですが、一茶晩年の世界観との類似は明らかです。もし、江戸時代の日本において、昌益や一茶にみるような思想が主流となり、農業を重視した日本独自の近代社会が誕生していれば、明治以降の過剰な産業革命と西洋化を逃れ、日本は世界に向けて“もう一つの自由社会”の仕組みを提唱することができたのかもしれません。いや、そんな夢を抱くにはまだ遅くはないでしょう。心して一茶の句を読みさえすれば……。


どんど焼どんどゝ雪の降りにけり

 文政元年二月三十日(西暦一八一八年四月五日)の作(『七番日記』)。

 「どんど焼」という火祭りは現在も毎年の正月十五日ごろ、北信濃の多くの神社仏閣などで行われています。子供たちが持って来た書き初めや達磨、それに前年のすべての縁起物が焚き上げの炎に消え、白煙となり、天へと昇って行くのです。天からは牡丹雪が「どんど」と降って来て、「火」と「水」という自然の大元素が交わるような、神秘的な「春の祭典」が繰り広げられます。この作の二年前、一茶は「御祝義に雪も降也どんどやき」という初案を詠んでいます。しかし音韻的な面では満足がいかなかったようです。民謡のように、句頭韻を踏んで調子を良くしようと改めました。春の到来を祝う子供たちの祭りですから、童謡のような、朗らかな句を作曲したくなったのでは?

 ヨーロッパにも、太古から春の到来を祝う、古式ゆかしい火祭りがあります。「カーニバル」といい、今も多くの村で子供たちは「カーニバル小父さん」の巨大人形を木や紙で作り、それを冬の象徴として燃やしてしまうのです。しかし近年では暖冬早春が続き、カーニバルはあまり盛り上がらなくなったとよく聞きます。たしかに信州のどんど焼も最近、雪の降る年が少なくなり、かつての趣が薄れてきたと言う人がいます。地球温暖化は伝統文化を支えてきた様々な「祭り」にも悪影響を与えているのです。季節なくして伝統文化はなし、伝統文化なくして生きる楽しみはなし、といえるのではないでしょうか?



  1. 「さと」から授かった「悟り」(第二子の死、その後、文政元年~三年)







母性愛、父性愛



蚤の迹かぞへながらに添乳哉

 文政元年五月(西暦一八一八年六月)ごろの作か(『七番日記』『おらが春』)。

 五月四日、長女「さと」が生まれました。『七番日記』によると、一茶は数日前の四月二十五日と二十七日、妻の安産を夢見たと記しています。発育不全で瞬く間に亡くなった長男・千太郎の思い出でしょうか、一茶の夢路では男子が誕生していたのです。実はこの女の子の誕生こそ、一茶にとって生涯で最も幸せな日々をもたらします。そしてこの先のおよそ一年の出来事を綴った俳文集『おらが春』は、一茶の最高傑作として歴史に残ることになります。

 すべての始まりはこの一句、つまり母性愛の再発見にあります。一茶は『おらが春』(十二)のなかで掲出句の前書として「さと」の愛らしさと、再び母親となった「きく」の懸命な姿を繊細に描いています。我が子に胸を叩かれながら乳を与えたり、妊娠出産の疲れを忘れて日々におむつを変えたり、まめに蚤の跡を拭いたりするきくの母性本能を目の当たりにして、一茶は次の美文を残します。

 乳房あてがえば、すハ〳〵吸ひながら、むな板のあたりを打たゝきて、にこ〳〵笑ひ顔を作るに、母ハ長〳〵胎内のくるしびも、日ゞ襁褓の穢らしきもほと〳〵忘れて、衣のうらの玉を得たるやうに、なでさすりて、一入よろこぶありさまなりけらし。

 育児にどんな苦労が伴っても、母親にとってはその苦労こそが無償の愛の源となるのです。一茶は母性愛という神秘的な力を目前にして、さらに父性愛を抱くようになったのでしょう。彼は三歳のころ実母を亡くし、以来継母との仲が悪く、母親に可愛がられた覚えさえありませんでした。そういえば昔、江戸で奉公の生活に馴染まないころ、独りで海の無限さを眺め、見覚えのない母親の愛情があの世から届いて来たような気がしました。「亡母や海見る度に見る度に」(『七番日記』文化九年)という不思議な無季の句が、見知らぬ母への永遠の愛の証として生まれました。しかし一茶の心の傷は俳諧の浄化だけでは完治していたとはいえません。これからは自分が父親となり、かつて貰えなかった愛情を我が子に与えることで、この古傷がついに癒されるのだと、一茶は予感しました。母性愛という、人間の最も美しい“愛のかたち”を見習ってこそ、自分は大人になれるのだと感じたのではないでしょうか。

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 ここで、いきなりサッカーの雑談をしてもよいでしょうか。僕はサッカーファンではありませんが、二〇〇六年のワールドカップ決勝戦については特別な思いがあります。母親のことを相手選手にののしられた直後、ジダン選手はかの有名な頭突き事件を起しました。僕はその瞬間、古代ギリシアの悲劇を思わせるほどの深い人間性が見えたような気がしたのです。ジダン選手はのちにインタビューに答え、「人生において、サッカーよりも大事なものがあります」と、子供のような恥ずかしそうな声で語りました。その時、ジダン氏と同じアルジェリア生まれの大作家・カミュの名言を思い出しました。「法律か母親か、どちらかを選べと言われたら、俺は母親を選ぶ」と。やはり、母の顔を一度仰いだことがあれば、子供はその眼差から頂いた無償の愛をいつまでも忘れることはないでしょう。

 一茶の場合、母代わりとして祖母「かな」の存在が大きかったものの、ある意味できくと結婚して子供が生まれるまでは、母性愛の神秘的な力を感じることはほとんどありませんでした。この体験のお陰で、彼の世界観は一層大らかなものになってゆきます。

 「命を守ろう」という本能は、やはり男性が女性から教わるべきものでしょう。現代社会をみても、日常生活において環境問題を考えようとするのは、ほとんどが女性です。国際政治においても、ドイツの女性首相メルケル氏が最も積極的にポスト京都議定書の目標を立てているのも、偶然ではないような気がします。

 今の地球は、蚤の跡だらけの赤ちゃん以上に哀れな姿になってしまいそうです。男も女も、母性愛のような大らかな気持でこの地球を可愛がりましょう!


目出度さもちう位也おらが春

 文政二年正月(西暦一八一九年二月)ごろの作か(『おらが春』)。

 俳文集『おらが春』に所収された、最初の一句です。句意はただの自嘲的な俗談平話と思われがちですが、実は標準語ではなかなか伝えられない微細なニュアンスが句興の中心になっているのです……。まずは伝記的な背景を考えましょう。長女「さと」が生まれて半年後の正月、我が子はすくすくと育っています。一茶の、信州での生活はついに落ち着きました。つまりこの文政二年の正月、一茶は四十年ぶりに故郷に再び根を張り、一家の主となり、いわゆる「信濃人」というアイデンティティーを取り戻したといえるのです。そしてこのころから、“真の母国語”である北信濃の方言を俳諧においても多く使うようになります。だからこそ、掲出句の中七を「ちゅうくらい」と標準語で読むのではなく、「ちゅっくれ」という方言の読みと意味を採るべきでしょう。標準語の「ちゅうくらい」は「たいしたことない」の意ですが、「ちゅっくれ」は「ちょうどいいぐらい」という肯定的な意味合いになります。金子兜太氏もやはり『一茶句集』(岩波書店)で「この句を読むと、一茶のなんとない自足の心情を覚える」と述べています。間違いなく「ちゅっくれ」の方が、この時期の一茶の心境に合ったお国言葉なのです。「江戸のやつらのように、優雅に新年を祝うことはできないが、信州の初春はおいらにとって丁度いいのさ!」と。

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 ところで、一茶は方言に潜められた“未知なる言葉の力”に対して、絶えざる関心を抱いていました。彼が晩年書き継いだ「方言雑集」(『一茶全集』第七巻所収)は、日本語学の貴重な資料として今も広く知られています。そのなかで特に、農村生活と密着した単語や四季の移ろいを標準語以上に詳しく描いた表現が書き溜められています。たとえば、近世信濃ではまだ食べられるごろの葉っぱなら、すいばを「すいこ」と呼び、たんぽぽの葉を「くじな」と呼んでいました。他に、「山ノ下ノ平」らなところを「こば」と言ったり、大きめの氷柱を「金氷」と、小さめの鼠を「子ねり」と呼んだりしていたそうです。信州の近世村人が豊富な語彙をもって大自然と向き合っていたことが判るのです。実は現在の信州人もいまだに雪に関する語彙が大変豊かであり、たとえば千曲川上流にある長野県中南部からやって来る湿っぽい雪を「上雪」と言ったり、一旦溶けてまた春の朝夕に凍った雪の表面を「堅雪」と呼んだりします。動植物や天候を詳しく描いた様々な風土の温かな言葉を守ることが、地球環境を守るための第一歩だといえるのではないでしょうか。「ヨハネによる福音書」の冒頭に「初めに言葉ありき」とありますが、たしかに人間の世界においても適切な言葉がなければ、森羅万象の営みを深く理解することが困難となり、自然を敬愛する心も育たなくなるでしょう。一茶のように、農村のお国言葉を研究すればするほど、他の生き物への親近感が湧き、“心のエコロジスト”となってゆけるのではないでしょうか。


這へ笑へ二ツになるぞけさからハ

 文政二年正月(西暦一八一九年二月)ごろの作か(『おらが春』『七番日記』『八番日記』)。

 今朝の春、この目出度い元旦から我が子「さと」は早くも数え年で二歳になるのだと、自慢げに詠う一茶の肉声が聞こえるようです。同時に、一茶は長男の夭折を思い出し、あちらこちらと常に這い回る長女の育児について、ずいぶん神経質でした。田辺聖子氏は『ひねくれ一茶』(講談社)で次のように述べています。

 一茶はお菊の子育てが心配でならなかった。お菊はかなり放胆なところがあって、どこへでも這ってゆき、なんでも口へ入れる子供には目が放せないのに、時折抛ったらかしにしてどこかへ行っていることがある。

 真実の通りでしょう。そうはいえ、近世の農村では案外、育児の責任がもっぱら女性にあるという認識はありませんでした。大藤修氏が『近世村人のライフサイクル』(山川出版社)で述べているように、むしろ「子育ては父親が責任をもってあたらなければならない、とされていた」。また、「近世には『良妻』という概念があっても、『賢母』なる概念はなかった。賢母論が登場するのは、明治」からだと指摘し、江戸時代の村では農作業も子育ても男女が協力して対等に担っていたということが分ります。現代日本の少子化問題を考えるうえで、積極的に育児に携わる近世農村の父親たちが参考になるのではないでしょうか?




小動物と少欲



我と来て遊べや親のない雀

 初案は文化十一年正月(西暦一八一四年三月ごろ)の作(『七番日記』など)。掲出句は『おらが春』に拠る。

 一茶はまだ江戸に住んでいたころ、およそ文化六年の春から、なぜか「雀の子」という珍しい季題に興味をもつようになり、以降最晩年まで約百句を小雀に捧げることになります。小動物詠のなかでは、以前に取り上げた「蛙」と「蝶」の句(それぞれに約三百句)の次に多い題材なのです(猫と並んで)。一茶にとって、「蛙」には亡くなった長男「千太郎」の面影があり、「蝶」には愛娘「さと」を思わせる可憐さが宿っていたといえます。では、「雀の子」はどんな“キーワード”として使われたのでしょうか? それはやはり、一茶自身の子供のころの姿、すなわち「弥太郎」を象徴するものでした。上の掲出句は最終案となった『おらが春』所収の句形に拠りますが、その『おらが春』(十)をよく見ると句の下に「六才弥太郎」とあります。もちろん実際は一茶の子供時代の作ではなく、いくら遡っても作品成立が文化十一年正月ごろと思われます。しかしその五年後、一茶は『おらが春』の執筆に当たって自己の子供時代を振り返り、この句こそが孤児だった「弥太郎」の心境を象徴するものと考えたのです。前書に次の名俳文があります。

「親のない子はどこでも知れる、爪を咥へて門に立」と子どもらに唄はるゝも心細く、大かたの人交りもせずして、うらの畠に木・萱など積たる片陰に跼りて、長の日をくらしぬ。我身ながらも哀也けり。

 実はここで、子供のころの一茶が他の子供達に聞かされて淋しい想いをしたという“唄”は、寺子屋などでよく教えられていた近世民謡であり、小野恭靖氏(『近世歌謡の諸相と環境』、笠間書院)によると『絵本倭詩経』(明和四年刊行)の二番歌などにみる「孤は 目かけて遣れ 爪を咬て 門にたつ」の類歌なのです。小野氏はこの民謡について次のように述べています。

幼児に向けた教訓的民謡である。親のない子の惨めな様子を強調することによって、親の大切さを説き、この時代の身分制度の維持を目指した儒教道徳の暗い一面を示していよう。

 「親のない子は……」の歌謡は、まさに近世日本の社会が生んだ申し子とも言うべきものであるが、これが一茶の句作の一契機となったことはきわめて注意に価する事実であろう。

 やはり「我と来て」の句は、単なる“子供俳句”ではなく、一茶晩年の“民主的思想”が表れた秀句だとみるべきでしょう。近世日本の為政者のイデオロギーであった「儒教道徳」は「身分制度の維持」を目差して「親のない子」や社会の弱者に対する差別的な扱いを正当化するものでした。そこで一茶は、そんな差別への批判を仄めかしつつ、弱い生き物の象徴である「親のない雀」を哀れみ、為政者と正反対の「弱者重視の思想」を唱えたのです。

        *     *

 ここで、人間と自然の共鳴を詩作で詠い、謙遜と清貧の生き方を徹底して、最後は雀にも福音を説いたとされるイタリアの聖フランチェスコ(一一八二?~一二二六)の思想が思い出されるのではないでしょうか。その思想はキリスト教の一流派となりましたが、仏教用語でいえば「少欲知足」という表現に当てはまるといえましょう。小さな生き物、そして“小さく生きる人々”こそ尊い道を歩んでいるとするこの思想は、実はフランチェスコ修道会や仏教のみならず、世界中で様々な文化やライフスタイルでみられると、フランスの哲学者Y・パカレ氏(YvesPACCALET, Sortie de secours, Arthaud,2007)が書いています。氏はこの類の思想を「少欲の哲学」(philosophiedupeu)と名付け、地球温暖化の問題を解決するにはテクノロジーが追い着かないだろうと想定したうえで、物質的な消費量の半減が唯一の突破口であると主張しているのです。つまり、かの3R(Reduce,Reuse,Recycle)のうち、リデュースが最優先だとしています。たしかに現代アメリカの二酸化炭素排出量は一年に一人当り二十トンとなっていて、世界の全人口が同じ生活ぶりを続けるのであれば、地球五個分が必要になるといわれています。日本や欧州諸国ではたいてい一人当り十トンの二酸化炭素が排出されますが、先進国の平均がその半分ならこの地球で全人類が生活できるとされています。パカレ氏の調べによると、一年に一人当り五トンの二酸化炭素排出といえば、丁度フランスの一九六〇年代半ばの資源消費量に相当するといいます。したがって、十九世紀のような不便な生活に戻らなくても、もし先進国の人々が四十年前の西ヨーロッパの生活水準に帰れば、地球温暖化が止められるという単純計算が成り立ちます。


時鳥なけや頭痛の抜る程

 文政二年二月(西暦一八一九年三月ごろ)の作(『八番日記』―この日記は一茶の自筆本が現存しない。以降『一茶全集』所収の「風間新蔵写本」に拠る)。

 日本文化において、自然界の様々な音からイメージを膨らませ、単なる「音」ではなく、意義ある「声」としてそれらに耳を傾けるという「音響的感性」が優れていると思います。たとえば「虫の声」「雪の声」「霜の声」「荻の声」などは、西洋人の“ものの聞こえ方”からすると不思議で仕方ありません。さらに日本人は絶妙な音響的装置を考案し、「風鈴」「鹿威し」「水琴窟」などをもって「涼しさ」や「静けさ」や「さび」を音響的に表現し、音で人の心を癒すという妙技まで発展させました。一茶の掲出句もそんな日本の音響的感性が表れたものといえましょう。延々とホトトギスの美声を聴くことで頭痛を治そうとする一茶は、現代医学の用語でいえば「自然音による音楽療法(Musicotherapy)」を利用していたのです。まさに、副作用のない「自然療法」であります。逆に、現代日本の都会では、道路や商店街などの騒音によって精神不安定に陥る人々が少なくないという事実が思い出されます……。


蟻の道雲の峰よりつゞきけん

 文政二年六月(西暦一八一九年八月上旬ごろ)の作(『おらが春』『八番日記』など)。

 蟻たちはこつこつと夏雲の頂上から歩いて来たのか、と詠む一茶の大胆な想像力と壮大な遠近法の描き方が鮮やかです。大と小のコントラストを生かして笑いをつかもうとする姿勢に関しては、またも民謡からの影響がうかがえるかもしれません。たとえば、『日本歌謡類聚』(博文社、明治三十一年刊行)に所収された山城の国の馬子唄「富士の山をば 鳶がさらふ 奈良の大佛 蟻が曳く」などが思い出されます。

 しかしここでも一茶は素朴な“笑いの俳人”という仮面を被りつつ、実は深遠な世界観を表現しているといえます。

 この句は『おらが春』の第四話を締めくくる作品として有名ですが、そこにみる句と文の軽妙なズレが一茶の作為について多く教えてくれるような気がします。文章は「しなのゝ国墨坂」(現在の長野県須坂市)に伝わる民話を語るものです。今は昔、「中村何がし」という医家があり、その父親はある日、交尾中の蛇をいたずらで殺したといいます。するとその晩、家に帰った名医は「かくれ所」(陰部)の痛みを訴え、いよいよ辺りが腐り、ついに「ころりとおちて死ける」とのこと。しかもその息子も「並ミ〳〵より優れて、ふとくたくましき松茸のやうな」男根を誇っていたにもかかわらず、結婚した途端「たゞちニめそ〳〵と小さく」なり、「百人ばかり」妻や妾を替えても結局インポテンツが治らず、名家の血筋が絶えたと伝えられています。そこで一茶の結論が殊勝です。

 されば生とし活るもの、蚤、虱にいたる迄、命おしきハ人に同じならん。まして、つるみたる[交尾する]を殺すハ、罪深きワざなるべし。

 今の言葉でいえば、地球の生態においては人間も昆虫も同じく生きる意義があり、あらゆる生き物が自由に生殖できるようにしなければ、いずれ全体のバランスが崩れてしまう、という生物多様性(biodiversity)の概念に非常に近い直感的知覚なのです。そしてこの結論の後、一茶は掲出句を載せ、壮大な雲の峰と小さな蟻が同じ宇宙のなかで繫がっているような、大胆な発想を披露します。一茶の句の真意、つまりその“生態学的な広がり”が文章のお陰でさらに引き立ったといえるのではないでしょうか。

 (余談ですが、我が妻もかの医師と同じ須坂の出身です。結婚してまだ一年足らずですが、早く子供を授かりたいと思い、半年前から不妊治療の専門医に通うようになりました。日本人とフランス人の間で生まれて欲しい僕らの子供は、まさに「生物多様性」、そして「文化多様性」の象徴となってくれればと願うばかりです……。)




露の世ながら



露の世ハ露の世ながらさりながら

 文政二年夏(西暦一八一九年晩夏)の作か(『おらが春』)。

 正直なところ、今回の鑑賞は僕にとっても書くのが辛いです。一茶が最愛の娘さとを亡くしたことを思い出したくないような、複雑な心境なのです。

 『八番日記』文政二年六月十二日の項に「サト女[ノ]薬[ヲ]取[リニ]野尻[ヘ]行[ク]」とあります。翌日、痘瘡を患ったさとに薬が効いたようで、「サト笹湯の祝」と記されています。酒をまぜたお湯を笹の葉に載せて子供に飲ませるという快復後の祝儀です。しかしその直後、さとは「益〳〵よはりて」(『おらが春』に拠る)、一茶は民間療法の全手段(熊胆、甘草、桔梗、そしてまた熊胆)を尽くしたものの、「終に六月廿一日の蕣の花と共に此世をしぼミぬ」とのこと。当日の『八番日記』には「サト女此世ニ居[ル]事四百日 一茶見新百七十五日 命ナル哉」とあり、一茶が実際愛娘と親しく過ごした日々を改めて数えるほどの悔しさを覚えたのが分かります。

 掲出句は『おらが春』第十四話(さとの死)の中心句として置かれ、他界直後に詠まれた発句とされています。しかし本当に「発句」と呼べるかどうか、定かではありません。季題は一応秋の「露」ですが、六月にしては季節外れの句となり、やはり「露の世」(儚い世の中)という慣用句を引用している程度です。しかも題材を一つしか扱わない“一物仕立て”であるうえ、「露の世」を繰り返し、「ながら」をも繰り返し、まさに“空洞な句”になっています。喪失感のため、一茶は同じ単語を繰り返すことしかできなかったのでしょう。そうはいえ最後に「さりながら」で読者に問います。「分かっていながら、やはり辛い」と同時に「さりながら我は生き続け、もう一度命を伝えるようにしようか」という前向きな解釈も許されます。

 この句は「発句」「俳句」「秀句」などと呼んでもよいか分かりませんが、間違いなくその後、無数の父親に勇気を与えた“ことば”なのです。加藤楸邨(『一茶秀句』、春秋社、三一六頁)は「私など子供をさとぐらいでなくしているので(中略)目頭が熱くなるような感じがする」と述べています。また、「露の世ハ」の句は初めてフランス語に翻訳された一茶句でもあります。訳者のP=L・クーシューは「さりながら」を前向きな解釈で訳し、次のように評しました(Paul-LouisCOUCHOUD, Les Haïkaï :

Épigrammespoétiques du Japon, in Les Lettres, Paris,

4-8/1906・日本語訳、『明治日本の詩と戦争』、みすず書房、一九九九)。

俳人は実体のない現世のはかない姿をじっと見つめる、しかもその姿を眺めることを不快とは思わない。

そして現在に至って一茶はフランスで最も多く翻訳された日本の俳人となり、最近では名作家のP・フォレスト氏は小説「SARINAGARA」(PhilippeFOREST,

SARINAGARA,Gallimard,2004)のなかで、さとを失った一茶の悲哀を繊細に描いています。その小説家は実は、六歳の娘に先立たれた父親でもあります。

 僕は数年前、六歳の甥のティボー君を亡くしました。そしてなぜかこの連載を書き始める前に、まずはフランスに一時帰国し、ティボーの父親であった兄に会いに行きたくなりました。そこで兄に一茶の生涯を語り、二人とも涙を流しました。すると兄は、「それなら、その一茶という日本の詩人の評伝を、君なら書けるよ」と励ましてくれました。僕はその時、兄に誓いました。「もし僕と妻の間に男の子が生まれたら、ミドルネームを『ティボー』にするよ。そしてもし女の子だったら『さと』にする」と。

 一茶にとってさとの薄命はひどく空しいものに感じられたでしょう。しかし、その苦しみがバネとなり、一茶は掲出句を詠み、のちに『おらが春』という日本の俳文の最高傑作を書き上げることができたといえます。結局さとほど国際的に知られ、世界中の人々に勇気を与えた一歳児は他にいないといってもよいでしょう。空しいどころか、さとの短い人生は加藤楸邨、P=L・クーシュー、P・フォレスト、僕の兄などの人生を変えるほどの素晴らしいものとして残りました。さとは世界中で「命の儚さ」を象徴する“永生の子”となりました。

 文学が文学であり、作品が技術的に優れていれば作者の生き方や世界観などを考える必要はないと言う読者がいます。そのような方にとっては、この連載の趣旨が解りづらいでしょう。しかし、歴史に名を刻んだ芸術家たちはみな才能だけではなく、新しい時代に向けたビジョンをもっていたといえるのではないでしょうか。現在、環境問題の規模をみていると、芸術家たちにも“人間と自然の新たな関係”あるいは“命の儚さ”というテーマにふれて貰う必要があると思わざるを得ません。その助けとして、一茶晩年の世界観が用を成すに違いありません。特にさとの死後、一茶の眼差はさらに深くなってゆきます……。

        *     *

 米国元副大統領でノーベル平和賞受賞者のアル・ゴア氏のドキュメンタリー映画「不都合な真実」で最も感銘を受けたところは、息子の交通事故を語る部分です。一時、四十歳の若さで次期大統領候補と予想されていたころ、ゴア氏は六歳の息子を交通事故で失いそうになったのです。九死に一生を得た息子のリハビリを手伝うために、彼は数年間政治活動をほぼ休止しました。本人いわく、そのころからもっと長い目で人生を考えるようになり、環境問題に関心をもち、最初の著作『地球の掟』(EarthinBalance)の執筆を始めたそうです。結局、息子の交通事故がなければ、今ごろ、地球環境保護の最も著名な運動家が出現していなかったということになります。ぜひいつかアル・ゴア先生に『おらが春』の英訳を読んで頂きたいですね。


蟷螂や五分の魄見よ〳〵と

 文政二年九月(西暦一八一九年十月後半~十一月前半)の作(『八番日記』)。

 カマキリは、前肢を振り回しながら大きな目玉で人間を仰いで、何かを訴えているように見えました。一茶の目には「ほら、生きているよ、死なないうちに私の小さな魂を見てくださいよ!」と切望しているように見えたのです。なぜ一茶の眼差はたかがカマキリに対してこれほど深い慈愛をもつようになったのでしょうか。

 愛娘さとが亡くなったのは、この前の六月二十一日です。その直後、一茶は再び瘧(マラリア)の発作に苦しみました。そういえば、長男千太郎が亡くなった後も、同じようにマラリアを患いました。一日おきに高熱期と解熱期が繰り返される大病です。鎮静したある日、一茶は希望を取り戻して「けさ秋や瘧の落ちたやうな空」を詠みます。運良く二週間ほどで完治し、さとが他界した一か月後の七月二十一日には「名月や膝を枕の子があらば」という句を吐露します。このころから、越後・新井の俳人たちから俳諧指導の申し入れがあり、一茶はまた旅に出ますが、八月の日記はやはり暗い句が続き、まださとの膝枕を偲ぶような「膝抱て寝漢顔して秋の暮」など、哀吟が相次ぎます。

 そして、さとの死から三か月が経った九月下旬から、掲出句にみるような、“昆虫に同情する吟”が日記で目立つようになります。たとえば発句でいえば「蜻蛉もおがむ手つきや稲の花」(九月)、あるいは俳諧歌では「生る者殺すな五分の魄の蟻の思や天に通ぜん」(十月)がその好例でしょう。両作とも二年後の名句「やれ打な蠅が手をすり足をする」(『八番日記』)とも類似性が明らかです。金子兜太氏(『一茶句集』、岩波書店)は「やれ打な」の句について次のように述べています。

 いま眼の前に小休止している蠅を客観的にそのままに見て、そのありのままの生態の嬉しさを書き写した、いわば描写の句と読む。そして、その陰には一茶と蠅との親しげな交感があり、それがアニミズムというものなりと見るのである。

 結局金子氏は上五の「やれ打な」をあまり重視せず、それを「ごく軽い言い方」あるいは中七下五の「枕詞」程度のものとみています。たしかに、前記の蟷螂と蜻蛉の句と同様、蠅の句も見事な描写が読者の意表を突くところがあります。しかし同時に、「魂を見よ」「殺すな」「打な」といった強い呼び掛け表現の頻度にも留意すべきでしょう。

 以前に述べたように、一茶はそれまで「胡蝶の可憐さ」と「愛娘の可愛らしさ」を重ねて多くの句を詠んでいます。さとの死後は、昆虫たちは単なる「可愛い生き物」ではなく、むしろ「可哀そうな生き物」に見えるようになります。一茶の小動物詠は「憧れ」から、もっと深い「慈愛」に変わってゆきます。浄土真宗の用語でいえば、虫たちは一茶に向かって他力本願を唱えているものに見えるのです。この秋以降、一茶は昆虫を見ながら、実はあの世へ逝ったさとの声を聴こうとしているのです。




モラリスト一茶



さと女して夢に見へけるまゝを

  頬べたにあてなどしたる真瓜哉

 文政二年秋(西暦一八一九年秋)の作か(『おらが春』)。

 真桑瓜という自然の恵みから涼を得て、のびのびと育ってゆく我が子のあどけない姿を回想した追悼句です。『八番日記』文政二年「別紙夏」の項には、この句の初案と思われる作「頬べたにあてなどするや赤い柿」が載っています。そもそも一茶は亡き娘を夢で見ただけで、柿か真桑瓜か、記憶が朦朧としていたに違いありません。いずれも秋の季題ですが、ここでは“夢のなかの季節感”、いわば“あの世から来た秋”を詠んでいるといえます。のちに、さとに捧げた俳文集『おらが春』にこの句を収めるに当って、一茶は冷静に適切な推敲を行いました。涼を取るために様々な果物を頬っぺたに当てる娘の仕草は夢のなかの回想なので「するや」を「したる」に変えて過去の出来事と分かるように改めたのです。そして、柿よりも真桑瓜の方が涼しそうと判断し、作品を完成させました。さとの死後、一茶は頻繁にこのように潜在意識から蘇った回想や辛い思い出を句材にし、句作と推敲によって(精神分析でいう)浄化法を行っていたともいえます。たとえば、そばに子供がいない時期でも、さとのような少女を思わせる回想句を度々詠んでいます(以降第18回「鳴猫に」の句を参照)。回想句はセラピーとなると同時に、初中期一茶調にみる日常性に、老いから得た精神性を足してゆくための作法でもありました。晩年一茶の秀作はこのように、通俗的にみえながらも、深い精神性の滲むものが多いのです。

 そういえば、一茶研究の第一人者・矢羽勝幸氏は『俳句研究』(二〇〇七年九月号)で、感銘句一句として一茶の晩年作と思われる「ひとはひと我はわが家の涼しさよ」を挙げています。この句においても、一茶は生活のなかの「涼しさ」を詠むと同時に、実は精神的なものを仄めかしているといえます。自然体で自分らしく生活を送ってこそ“誠の涼しさ”を味わうことができるという深意が伝わります。さとのように頬に瓜などを当てたり、我が家独自の涼しさを愉しんだりして、のんびりとした生活を送れば、人間はのびのびとこの世で共存できるのだ、という「独立自尊」のモラルが現代読者にもよく通じるでしょう。

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 現代生活のなかでも、冷房を使わなくても様々な“納涼装置”が考えられます。家の南側には簾や夕顔で作ったグリーンカーテンなどを設置し、北窓からの風を送り出すように扇風機を置けば、ずいぶん温度を抑えることができます。扇風機の前に氷水のペットボトルを置くのもおススメです。さらに、子供や小動物の行動を観察することで“納涼研究”がグレードアップします。さとのように触感の涼しいもの(瓜、竹、石など)を求めたり、時間帯によって昼寝をしたり、部屋や姿勢を変えたりすることが大変有効的なのです。僕はいつも愛犬・キャラメルの行動を観察して共に涼しい場所へ転々と移動しますが、最近はお陰様で我が家は冷房が不要、リモコンも行方不明のままです!


  能なしは罪も又なし冬籠


 文政二年冬(西暦一八一九年冬)の作か(梅塵写本『八番日記』)。

 この冬は前年と違って一茶は我が家で愛娘と一緒に目出度い年末年始を過ごすことはできません。そこで、上京して江戸で寂しさを紛らわそうかと考えたようです。このころの日記に、前書「江戸道中」に続き、「椋鳥と人に呼るゝ寒哉」という句が記されています。当時は信州の貧しい小作農は小鳥のように秋に南へ渡り、食べ物を貰い、春には山へ戻ることが多かったため「椋鳥」という差別語で呼ばれていました。たしかに一茶はただの地方俳諧師だったので、吹雪の北国街道を踏んでいても「先生」と呼んでくれる人は一人もいなかったはずです。実際に道中で「椋鳥」と罵られたかもしれません。結局上京を断念し、柏原の庵へ戻ることにします。そして数日後掲出句を吐露します。「おいらは能なし(信州方言で怠け者の意)、江戸まで歩く勇気もなかった。だけど、罪を犯して身を隠しているわけでもない。一百姓として、家で寒さを凌いでいる、それでいいのだ!」という句意になります。フランスのモラリスト・パスカルの名言が思い出されますね。

 すべての人間の不幸はただ一つのことから来る。それは部屋で静かに休んでいることができないということである。(『パンセ』「気晴らし」より)

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 僕は毎週水曜日、長野市から東京まで新幹線で蜻蛉返りをして首都圏の大学へ比較文学を教えに行きます。気晴らしで通っているわけではありませんが、環境問題を考える者と自負しているのに、毎週の新幹線でずいぶん電力を使っているのではと、以前から罪悪感を抱いています。しかし調べてみると、新幹線の移動に必要な電力の一部が化石燃料で作られているにもかかわらず、電車は実にエネルギー効率の良い交通手段であり、二酸化炭素をほとんど増やさないという事実を知りました。一人を一キロメートル運ぶ時の二酸化炭素排出は平均で、新幹線の場合は十四グラム、普通電車の場合は十九グラム、飛行機の場合は百十一グラム、自動車の場合は百七十五グラムが必要になります(『運輸・交通と環境』二〇〇六年、交通エコロジー・モビリティ財団を参照)。つまり、往復六キロメートルの自動車での日常通勤の方が、僕の東京までの新幹線通勤よりも多くの二酸化炭素を排出するということになります。

 もうひとつ罪悪感がありました。それは、僕がフランスまで家族訪問する時の飛行機の多用に関するものです。先ほどの数字で計算すると、東京―パリの往復便は一人につきなんと二トンの二酸化炭素が排出されるという恐ろしい数字が判明します。ただ、僕の場合は苦しい問題です……。これからはなるべく二年に一度だけの帰省で我慢しようかと思っています。何より、軽々と気晴らしのための飛行機の旅を繰り返さないことが、これからの時代では必要なモラルになってゆくのではないでしょうか。二十世紀初頭で使われたような飛行船の定期便も考えられますが、多くのリゾート地の場合は高速客船という交通手段も魅力的で、飛行機ほど環境に害を与えません。時間に余裕のある方にとっては、ハワイまで二日がかかっても楽しい“エコ・ツーリズム”の旅となるでしょう。いうまでもなくパスカルや晩年の一茶のように「部屋で静かに休んで」読書に打ち込むのも、賢い休暇の過ごし方ですが……。


  ともかくもあなた任せのとしの暮

 『おらが春』に、「文政二年十二月廿九日」(西暦一八二〇年二月十三日)の日付がある(『おらが春』初出)。

 『おらが春』を締め括る句です。その『おらが春』の最初の句といえば以前に取り上げた「目出度さもちう位也おらが春」ですが、両句が一年の両端を指し、見事に照応しています。また、この句の中心的感興である「あなた任せ」という表現は、実は冒頭の文でもみられます。

 から風の吹けばとぶ屑家ハ、くづ屋のあるべきやうに、門松立てず煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける。

 やはり、『おらが春』という作品全体の真髄はこの「あなた任せ」の精神にありそうです。むろん、近世では「あなた」とは人称の意味がなく、「あちらにあるもの」または「あの世」を指します。そうはいえ、一茶は単に阿弥陀仏だけに向かって一句を唱えているのでしょうか。山尾三省氏(『カミを詠んだ一茶の俳句』二五四頁)は、先ほどの『おらが春』の冒頭について次のように指摘します。

 この文章において一茶が〈あなた〉と呼んでいるのは、正確に言えば、浄土門の伝統における阿弥陀仏であると同時に、一茶およびその屑家を深く大きく包みこんでいる信濃の大自然そのものであり、その自然を貫いて在る摂理そのものでもあった。

 『おらが春』にみる一茶の精神は「浄土真宗的他力信仰」に限定されることが多いですが、少なくとも専ら阿弥陀仏に頼るような精神ではないというべきでしょう。『おらが春』の最後の文でも、一茶は盲目的な他力信仰の「縄に縛れ」た人々を批判し、空念仏よりも日常の行ないが肝心であるという“自力的なモラル”も強調しています。

我田へ水を引く盗ミ心をゆめゆめ持べからず。しかる時ハ、あながち作り声して念仏申ニ不レ及。

 一茶の「あなた任せ」の精神はまず、自と他の共生を尊重するモラル、つまり自力思想を含む他力思想なのです。

そしてこれが、現代の環境問題を考えるに当って参考となる思想でしょう。つまり人類は今まで地球という他力に頼る一方でした。そろそろ限度ある資源に対する「盗ミ心」をやめ、自力と他力のバランスを取り戻し、自然に恩返しする時代が来ているのではないでしょうか?

  1. 謙虚に生き続ける(発病、第三子の死、文政三~五年)







「日常」という哲学


 今回は、文政三年春夏の評伝を書くことにします。ところで計算すると、一茶が信州に帰郷した文化九年の冬から七年半が経っていて、故郷で息を引き取るのも七年半先となります。つまり一茶は今、帰郷で始まった第二の人生の真ん中に立っているのです。ここまで、いろいろな出来事がありました。様々な衝撃を受け、一茶は俳人のみならず思想家、そして人間として大きく成長しました。帰郷の翌年は大病を患い、その直後「あるがままの芭蕉会」で民衆的思想と鄙びた生活の尊さを唱えました。次の春は若々しい信州の“田舎娘”菊と結婚し、俳風が“女性的な丸味”を帯びるようになりました。第一子「千太郎」の夭折後、子供や小動物、つまり儚い命に対する慈愛が心にさらに深く根付きました。それに続き、一歳で他界した愛娘「さと」の死後、俳文集『おらが春』で“自力と他力のバランス”の大切さを主張するような思想、モラリスト的とも宗教的ともいえる境地を世に示しました。一茶は若きころの荒々しさを離れ、生きとし生けるものの共存を願うようになり、新しい人間に生まれ変わったのです。ある意味で、皮肉にも子供二人の死という悲劇は、一茶の大らかな“エコロジー的精神”の肥やしになったともいえます。やはり、フランスの環境保護運動家ニコラ・ユロー氏がいうように、「生まれ付きのエコロジストはいません。人生の難所を歩むに連れてエコロジストになってゆくのです」。


起〳〵やおがむ手に降春の雨

 文政三年一月十二日(西暦一八二〇年二月二十六日)の作(『八番日記』)。

 信心深い北信濃の百姓の懸命な日常を描いた佳句です。起床して間もなく近くの菩提寺まで駆けつけ、拝む手に春雨を受ける、そんなひとコマが目に浮かびます。実は、この句が描いているのは一茶の愛妻「菊」であり、彼女の熱心な祈りには特別な理由があったと思われます。四日前の日記に「赤川久右衛門中風再発ス」とあります。「久右衛門」とは菊の父親です。「中風」といえば、いわゆる脳出血後の様々な後遺症を指します。菊の父親の場合、高齢と飲酒が病因だったと考えられます。菊はすぐに赤川村にある実家へ赴き、一茶の忠告により大根汁を父に飲ませたそうです。すると三日で病状が治まり、やがて旦那の元に戻ることができました。その翌朝、一茶は妻の祈る姿を見て掲出句を詠んだと推測できます。彼もそのころから毎晩の酒量が増え、血液の流れを良くする大根汁の効用を門人の薬剤師などから聞いていたのかもしれません。実は十か月後、一茶も中風の発作に襲われることになります。この吟の時、妻の祈る姿を前に、自分の健康を心配し始めていたのでは? 二人の年齢差は二十四歳、父と娘のようです。もし菊の父親が亡くなり、そして自分も中風で亡くなれば、彼女は子供をもたない、哀れな未亡人になってしまいます。早く第三子を授かり、今度こそ成人まで育つようにしなくてはと、一茶は内心で祈ったのでしょう。運良くこのころ菊の生理に遅れがありました。そう、彼女はこの秋、めでたく第三子・石太郎を出産します。祈りは通じました。死神に負けず、二人は再び命を伝えることになります。

 江戸時代の村人は、常に死と隣合せの生活を送っていたといえます。だからこそ、いざとなると死の恐怖を乗り越えるための勇気が持てたのではないでしょうか。現代のいわゆる“先進国”では、快適で安全な生活が当たり前となり、「死」という単語さえタブーになってしまいました。そのためか環境破壊による“人類没滅の可能性”を考えたくない、そして考えられないという頑迷が続いているような気がします。われわれは、沈没までシャンパーニュを片手にバイオリンの音に合わせて優雅に踊るタイタニック号の旅客のような生き方をしているのではないでしょうか。もう少し「死」というものを意識しながら生きていた方が賢いのでは? フランス十六世紀のモラリスト・モンテーニュいわく「哲学とは死に方を学ぶことだ」と……。


江戸住や二階の窓の初のぼり

 文政三年五月(西暦一八二〇年六月後半~七月前半)の作(『八番日記』)。

 回想句です。その時一茶はもちろん、信州の自宅すなわち農民の平屋で生活していました。なぜか、江戸でかつて訪れた立派な館を思い出したのです。一茶はかつて両国など、庶民的な長屋の町で生活していました。時折、浅草の成美宅など、裕福なパトロンを訪問し、その優雅な暮しぶりを覗くことがありました。五月上旬、屋敷の二階から見渡せば、延々と続く町並みの奥、富士の高嶺が聳え、最初の幟を発見することがありました。まるで、二十五年後に描かれた広重の傑作『名所江戸百景』の一つ「水道橋駿河台」の鯉幟を眺めているような絶景です。

 さて、なぜ一茶はこれほど鮮明に江戸の風景を思い出すことができたのでしょうか。それは、江戸時代の通信機関が優れていたからだといえます。一茶の文通記録『随斎筆記』によると、最晩年も毎月のように江戸の俳人と手紙のやりとりをしていたことが分ります(矢羽勝幸『信濃の一茶』一五〇頁を参照)。そのため、旧友との思い出が蘇り、掲出句のような“江戸回想”の発句が生まれたのでしょう。たとえば、この句が詠まれる直前、江戸の俳人で下総の俳諧仲間だった太筇から手紙が届いたところでした。二か月後一茶は返事を送ったことを記していますが、挨拶として掲出句を文中に添えた可能性があります。一茶は、飛脚だけではなく、複数の個人ルートの通信を巧みに利用していました。なかでも、善光寺町の忠実な門人で薬種商を営んでいた上原文路が頼りになったようです。薬の流通と同じ便で、一茶の書簡を運んでいました。商人と俳人が協力し、合理的な通信網が出来上がっていたのです。

 現代の俳句雑誌の投句方法について、いつも不思議に思うことがあります。ほとんどの同人誌の場合、電子メールでの投句が不可能であり、毎月切手を貼って郵送に頼るしかありません。漢字の正字体を遣う作者以外は、電子メールで送った方が簡単で安く、そして環境に優しいのです。国内便の郵送は主に環境に優しい電車を利用しているとはいえ、電子メールよりもはるかに多くのエネルギーを使います。新聞・雑誌に関してもしかり。僕は本誌『俳句』なら隅から隅までゆっくりと読みたいので低価のインターネット版が発売されても、おそらく印刷版を買い続けます。しかし、多くの同人誌や総合雑誌の場合、有料インターネット版があれば、定期的に興味のある記事を購入し、もっと頻繁に読むようになるでしょう。

 むろん、恋文はいつまでも便箋の方がいいです。とはいえ、実用的もしくは断片的な情報を伝えるには、インターネットという素晴らしいテクノロジーを利用し、無駄な紙とエネルギーを節約した方が合理的でしょう?

筏士の箸にからまる蛍哉

 文政三年六月(西暦一八二〇年七月後半~八月前半)の作(『八番日記』)。

 六か月目に入って、菊の妊娠は順調のようです。さとの急逝からはや一年が経ちました。一茶はしばしば俳諧師の仕事が入り、寂しさを紛らわしつつぼんやりと生きています。夏の夕暮れ、川端を通ると蛍狩りの小船が模糊と現れ、また闇に消えます。筏士は暇そうに弁当を食い始め、箸の匂いに誘われた蛍が舞って来ます。「平和だな」とつぶやき、一茶は久しぶりに穏やかな気分です。そういえば昔諏訪で「ちぐはぐの芒の箸も祝哉」という句を詠んだことがありました。「そうか、最近は仏のこととか、難しいことを考えているけど、箸と食べ物さえありゃ、人間は文句なしだ!」という独り言が聞こえてきます。

 昨年の夏、妻から木曾ヒノキの箸を貰いました。ケース付きで、いわゆる「マイ箸」という商品です。僕のセカンドバッグにぴったりと収まるサイズなので、最近はどこで食べても使うようになりました。たとえ使い回しの箸が置かれた店でも、妻から貰ったものの方が愛着があって好いのです。そこで調べたところ、日本の飲食店で使われている割り箸のほとんどは、外国産の安い木材で出来たものだといいます。木材は再生できる資源なのでそれほど気にする必要はないと思われがちですが、インドネシア、中国、ブラジル、コンゴ民主共和国などで伐採された森林の多くは再植林を行わず、そのため二酸化炭素が増えています。事実、二酸化炭素の増加の七十二%は化石燃料の使用が原因ではありますが、残りのほとんど(二十四%)は森林伐採が原因とされています。そんなこともあって、皆さんなるべく、好きな人へ「マイ箸」をプレゼントしましょう!




 人の油


子宝の多は在所や夕ぎぬた

 文政三年八月(西暦一八二〇年九月後半~十月前半)の作(『八番日記』)。

 秋の夕暮れ、稲刈りの仕事が終わるや否や、村の女性たちは夕餉もそこそこに、近くの川へ向かいます。赤子を背負う若妻もいれば、孫に洗濯の手伝いをさせる老婆もいます。一茶の愛妻・菊もそのなかに交じり、旦那の浴衣などを洗っています。彼女ははや妊娠八か月、お腹が丸々と膨らんできました。さあ、寒くなる前に、そして出産準備で忙しくなる前に、すべての衣服、布団、その他の布などをきれいに洗わなければなりません。信州の寒地では木綿が育たないため、麻、藤、楮、葛、科木といった粗くて丈夫な繊維に頼り、村人は自分たちで布を織っていたのです。石川英輔氏(『大江戸リサイクル事情』講談社文庫、一九九七、一二一頁)が述べているように、「衣食住の〈衣〉の部分も、すべて畑でできる農産物だった」といいます。ただ、そうした繊維は丈夫とはいえ、木綿と違って洗濯する度に硬さが戻り、布地を砧で打ち柔らげる必要があります。それが「砧打ち」。夜長のころの、女性たちの大切な仕事の一つでした。子供が多ければ多いほど様々な布が必要になり、砧打ちの時間が長くなります。ついに繊維がよじれてしまうと衣服が布団などに“リフォーム”されたり、雑巾になったりして、最後はオムツとして使われます。そして使用後のオムツをそのまま畑に埋めると有機肥料となり、また麻などが栽培され、新たな布が作れるわけです。苦労はかかりますが、江戸時代の村人はこのように自分たちの手で衣類のほぼすべてを土から得ていたということになります。

今の時代ではむろん、そんな「直耕直織」の生活を人々に求めても無理です。しかし、衣類の扱い方に関して、われわれ現代人は近世村人から倹約を学ぶことができるでしょう。なるべく良質で丈夫な服を選び、それを大切に扱い、場合によって古くなったものを雑巾などにリサイクルすることも可能です。たとえば、一年でよれよれになってしまうような安いワイシャツを買ってすぐにそれをゴミに出すのは反エコロジー的な行為であると同時に、おしゃれな習慣とはいえませんね。それより、一生物になるような高級ワイシャツを求めた方が最終的には安上がりとなり、繰り返し買う面倒もなく、見栄えもよいのではないでしょうか。


いくばくの人の油よ稲の花

 文政三年九月(西暦一八二〇年十月後半~十一月前半)の作(『八番日記』)。

 稲の花は目立つものではありません。秋の昼ごろ、日当りのよい所でぽつぽつと咲き始め、一時間ほどで受精し、米粒と化します。江戸の俳人たちはそんな地味な稲の花には関心がなく、それより染井吉野の花吹雪などを好むでしょう。しかも稲の花は桜とは違い、何もしなくても咲いてくれるような花ではありません。稲は百姓たちの汗、いわゆる「人の油」の結晶なのです。晩年の一茶はこのように、百姓の苦労を称えるような句々を多く詠んでいます。時には俳諧師として楽な生活を送る自分を省みて、罪悪感を抱くこともありました。

 江戸時代の日本列島は人口の約八割が百姓でした。今、テレビで時代劇などを見ていると武士と商人ばかりの国かと思われがちですが、事実社会の大半をなす百姓たちの努力と知恵のお陰で二百六十年間、全国の三千万人の食料が保証されていたわけです。天明以降の江戸後期には大規模の飢饉は起こらず、いわば食料自給率がほぼ百%になっていました。よくも機械、化学肥料、農薬を使わずに、近世日本の農民たちはこの狭い日本列島でこれほどの需要を賄い続けたと驚かずにいられません。その奇跡の理由は主に農民の勤勉さと、土地に合った「多毛作」という高度な知恵にあるといわれています。石川英輔氏(『大江戸えころじー事情』講談社文庫、二〇〇三、二四八頁)によると、

多毛作は、それぞれの土地の気候風土に合わせないと成功しないが、うまく合わせられれば、土地をほとんど休ませずに利用できるため、多様性の効果がよく現れた。(中略)たとえば、大豆→ソバ→ヒエのように一年で一巡する単純な組み合わせ、二年単位でヒエ→大麦→大豆の三種類を作る、麻→かぶ→大麦→大根というように二年単位で四種類を作る、

など、実に多毛作の種類がたくさんあったのです。

 一方、現代日本を含める先進国の“近代農業”といえば、ほとんどが集約農業であり、少ない農民が膨大なエネルギー量(トラクターや機械のガソリン、グリーンハウスを温めたり肥料・水を運んだりするためのエネルギーなど)を費やし、広い土地でずっと一毛作を続ける生産者が大半です。結果として次第に土地が瘦せ、化学肥料と農薬をさらに多く撒き散らすしか方法がありません。これが、いわゆる“近代農業”の悪循環というものです。その上、化学肥料一トンを作るには平均二・七トンの石油が必要とされています。結局“近代農業”は石油不足を悪化させるだけではなく、消費者の健康にも悪影響を与え、地下水を汚したりします。もはや土地の瘦せが限界まで進んでしまったと訴える農家が増えています。むしろ、伝統的な多毛作と有機栽培に戻った方が土地の栄養が再生され、生産性も上がり、無理なく健康的で良質な農産物が作れます。ただ、そのためには、日本の農家人口を大幅に増やしてゆかなければなりません。農薬と化学肥料の代わりに、「人の油」と昔からの知恵が必要になるわけです。

食料自給率が四十%、すなわち先進国のなかで最低になってしまった日本は、もう少し自国の伝統的農業に誇りをもち、教育機関においても「農家」という仕事の尊さを子供たちに伝えるべきでしょう。もし一茶が生きていれば、きっとそう呼びかけるに違いないと僕は思います。

 そういえば、一茶の故郷・柏原辺りの農家たちは最近「チビッタ農園」という共同生産組織を立ち上げ、「黒姫高原の清らかな水と空気の中、無農薬・無化学肥料栽培によって作られた、元気一杯の野菜たちです」をモットーに直販を始めました。我が家の近くのスーパーにも販売されていますが、低価と高品質のため、いつも瞬く間に全商品が完売してしまいます。包装も簡素で、必ず生産者名と連絡先が記されているので安心です。

 やはり、政府が有機農業の発展をもっと支援して欲しいと、いつまでも嘆いていても何も始まりません。まずはわれわれ消費者一人一人が、このような取り組みを積極的に応援してゆく責任があるのではないでしょうか。


岩にはとくなれさゞれ石太郎


 文政三年十月(西暦一八二〇年十一月ごろ)の作(『八番日記』)。

 文政三年十月五日、ついに第三子で次男の「石太郎」が無事に生まれます。まだ頼りない「細石」ですが、早く巨石になってくれるに違いないと、一茶は胸を躍らせています。しかし同時に、一茶の胸中には過去のトラウマがじわじわと込み上げてきます。あの世へ逝った千太郎の誕生の時も、さとの誕生の時も、このように我が子へ激励の挨拶句を贈っていません。「今度こそ生きてくれ!」という思いがいつになく強くなっているのは、千太郎とさとの死があったからでしょう。速水融氏によると(『近世農村の歴史人口学的研究』昭和48年、東洋経済新報社)、信濃では、十七世紀末には出生登録児の三割が六歳になるまでに死亡していたのに対し、十八世紀末には一割以下に低下した村もあったといいます。つまり一茶のころの柏原でも、乳幼児の死亡率が三十%以下だったと推測できます。それならなぜ、長男も長女も続けて亡くなったのだと、一茶は理解に苦しんだに違いありません。妊娠とともに親にとって心配の日々が始まるといいますが、一茶にとってこのころから過去のトラウマとの葛藤が始まったといっても過言ではないでしょう。実は石太郎の誕生の十日後、彼は初めて中風(脳出血の後遺症)の激しい発作に襲われ、二か月近く寝たきりになってしまいます。病床で老いを実感するとともに、我が子に対してさらに強い思いを抱くようになったのでは?

(時代と情況こそ違いますが、実は数日前、妻と初めて体外受精に挑戦しました。成功確率は三十%程度です。しかしお互いの年齢を考え、今のうちに何回か挑んでみようと、二人で決心しました。悲惨な運命にもかかわらず粘り続けた一茶と菊に勇気付けられたのか、僕らも可能性が残される限り頑張り続けようと思っています)




 もう一度若木を植えて



臭水の井[戸]の降より梅の花


 文政三年十二月(西暦一八二一年一月ごろ)の作(『八番日記』)。

 第三子・石太郎の誕生の直後、一茶は突如脳出血に襲われ、その後遺症(中風)のため二か月間脚の麻痺が続き、寝たきりの生活を余儀なくされました。これではわが子の成長を見届けることもできないという悔しさを覚え、十二月の初旬、脚試しに隣村の古間まで歩こうとします。しかし坂の途中で休まざるを得ません。全快していないことを痛感します(『一茶大事典』年譜・書簡による)。掲出句はそんな時の吟でしょう。

 道端に漆黒の臭水(石油の古称)がぷくぷくと湧き出ています。当時、越後や北信濃にある幾つかの小さな油田はいわゆる“自然の不思議”とみられていて、その石油を燃料としてほとんど使っていなかったそうです(石川英輔『大江戸えねるぎー事情』を参照)。草生水とも呼んだりして、主に塗り薬の原料として希少価値がありました。なにしろ、一茶のような近世の村人にとって、植物燃料(ナタネ油、木材など)の方が入手しやすく、清潔感のあるエネルギー源と思われたに違いありません。掲出句においても、一茶は石油の悪臭と梅花の芳香を対比しています。梅の花は清らかな命の誕生そのものです。つまり一茶にとってこの花は、二か月前に生まれてくれた小さな赤ちゃん・石太郎のようなものです。それに対して臭水は黒々として、どろどろとして、今までひたすらに死と闘ってきた自身の生涯を象徴するものだといえるでしょう。

 事実、現代地学によると石油はまさしく何百万年前の生物が腐り果てた結果として出来上がったものといわれています。一茶も掲出句で石油から湧き出る“死の臭い”を感じとっていたのではないでしょうか。

 この句が詠まれた百五十年後、化石燃料というエネルギー源に対する不信感を抱き、いち早く環境問題を論じた別の日本人作家がいます。それは今から三十七年も前に、化石燃料の危険を指摘した有名評論家・立花隆氏なのです。

 化石燃料は、過去の自然が蓄えておいてくれたエネルギーの貯金のようなものである。それを引き出して使うということは、エネルギー収支の面では“赤字経済”であることを意味する。

また、その名著『エコロジー的思考のすすめ』(初版『思考の技術――エコロジー的発想のすすめ』日本経済新聞社、一九七一)のなかで立花氏はすでに地球温暖化のメカニズムを説明していました。

 化石燃料の使用によって空気中に炭酸ガスが増加したことによって地球が温められ、北極南極の氷が溶けだして海洋の水位が上昇すると予言する学者もいる。

といわれていますが、その学者たちは今、三千人にもなり、IPCCという国連の研究機関を形成し、二〇〇七年にはノーベル平和賞も受賞しました。それでもなぜか化石燃料の使用にいまだに歯止めがきかず、人類はかつての生物の死体で出来た石油を燃やし続けているのです。一茶のころから直感的に“怪しいもの”とみなされていた「臭水」の多用はなぜか、十九世紀の産業革命以降、死に神のように日に日に地球の生命を脅かし続けているのです。


母親を霜よけにして寝た子哉


 文政四年正月(西暦一八二一年二月ごろ)の作(『八番日記』)。

 前書に「橋上乞食」とあります。つまりここで一茶は妻菊と息子石太郎の寝姿を詠んでいるのではなく、たまたま路上で見かけた親子、今でいえば“ホームレス”の母性愛を描いているわけです。そしてその母親を「霜よけ」に喩えています。現在も北信濃の畑でよく見かける「霜除け」とは、小枝を骨組みにして作られた、小さな温室のようなものです。必死でわが子を寒さから守ろうとする母親は霜囲いに見え、赤子は苗のような弱い植物に見えました。“農民俳人・一茶”ならではの、具体的にして温かな秀句といえましょう。また、言語学の用語を用いていえば母と子を人間以外の物に喩えた「二重の擬物化」という鮮やかな比喩表現が著しいです。

 何より、一茶は掲出句で親子愛の偉大さを裕福な階級の生き様に見出したのではなく、社会の底辺に生きる乞食の女性からその美しい姿を教わったといえます。ここで、理想の教育を植物の育て方に喩え、都会や上流階級の偏見から離れて我が子を自由に育てるべきと唱えたフランス民主主義の父・ルソーの教育論が思い出されます。

私は、あなた、やさしく先見の明のある母親にうったえる。大きな道から離れて、生まれたばかりの灌木を人々の意見の打撃から守っておやりなさい! 若木が死ぬまえに養い、水をやりなさい。その果実はいつの日かあなたの無上の喜びとなるでしょう。(『ルソー全集』所収『エミール』第一篇、白水社、一九八〇)

(実は先日、僕が非常勤講師を勤める埼玉県の十文字学園女子大学の図書館で貴重な書物を発見しました。それはつまり、『ルソー全集』の初版本[一七八二年版]三十三冊悉くその図書館にあったのです。第七巻にある、ルソーの教育小説『エミール』をただちに借りました。

 その数日後、待ちに待った妻の体外受精の手術が行われました。手術中、僕は病室に籠り、手を震わせながら『エミール』に読み更けりました。その時、二百二十五年前のフランスの貴重本と日本で再会した奇跡に感謝し、一茶晩年の精神によく似たルソーの大らかな人間愛に勇気付けられました。そしてその一冊のお陰で、僕は初めて父親になる覚悟が持てたような気がします。[ブログhttp://www.myspace.com/mabesoone 「ルソーと不妊治療」を参照]。お陰様で、早苗のような弱い受精卵はめでたく着床しました。ところがこの一か月、妻は切迫流産の症状があり、家でずっと寝込んでいます。僕は家事を一手に担い、妻の胎内についに授かった小さな命を、「霜よけ」となって守ってゆきたいと思います)


最う一度せめて目を明け雑煮膳


 文政四年正月十一日(西暦一八二一年二月十三日)の作か(俳文「石太郎を悼む」)。

 悲劇が起こりました。年始早々、鏡開きで一家が賑わうはずだった正月十一日の早朝、最悪の事故が……。

 菊はいつものように早起きしてせっせと家事に励み、二か月児の石太郎を背負いながら雑煮の準備を始めました。一茶はまだ布団に入ったまま、いつものせりふを唱え続けました。「まだ首の据わらない子だから……背負わないでくれよ! 不便でも、胸に当てて緩めに縛ればいいのじゃ……」と。しばらくして、菊の不安げな声が聞こえました。「イシ、イシ、イシ坊!……」。そして、叫び声が。石太郎はもはや、墓石のように冷たくなっていました。窒息死でした。一茶の胸には激怒が込み上げ、老人は突如獣に変わったかのように暴れ始めました。

 思い起こせば、千太郎が発育不全で亡くなった時も、さとが痘瘡で倒れた時も、お互いに理解し合えない、男女の異なった苦しみ方がありました。それでも時間が経つに連れて、一茶は菊の“運命主義的な苦しみ方”を知り、菊は一茶の“老人ならではの思慮深さ”を理解するようになり、最終的には二児の死は夫婦の絆をさらに強いものにしました。しかし今度は、一茶にとって、程度を超える痛みでした。彼はただちに筆を握り、「石太郎を悼む」という文章で心の毒を吐き続けました。「老妻菊女といふもの、片葉の芦の片意地強く(中略)必よ背に負ふなかれと、日に千度いましけるを、いかゞしたりけん」と述べ、結びに掲出句を書き記しました。加藤楸邨は『一茶秀句』で「感情に溺れて素材に凭れただけの作である」と酷評しています。僕は異見を唱えたいです。まずは、一茶という人間の、計り知れないほどの絶望がそのまま作品になったことに、文芸の次元を超えた一茶の奇跡的な精神力を感じます。そして題材に関しても、実は上記の一茶句は隠し味として修辞的技法を巧みに駆使していたともいえるのです。この句の前書との照応を検証しましょう。「かゞみ開きの餅祝して居へたるが、いまだけぶりの立けるを、最う一度せめて目を明け雑煮膳」とあります。つまり傍点で示したように、一茶は鏡開きと、死体となったわが子の閉じた目を対比していたのです。鏡のような、清らかな眼をしていた石太郎は今、鏡の奥の世にいます。一茶の心は真二つに割れました。心の半分は菊から離れ、千太郎、さと、そして石太郎のいる浄土へ逝ってしまいました……。

 しかし一茶の放心状態は長く続きません。夫婦の愛はこの難関を乗り越え、春にはいつになく美しく甦るのです。




 もう一度愛し合って


鳴猫に赤ン目をして手まり哉


 文政四年正月(西暦一八二一年二月ごろ)の作(『八番日記』)。

 共に育ってきた幼子と仔猫が、共に年を越します。二つの小さな生命の間を手鞠が走り、子供と小動物とのあどけない駆け引きが、正月の囲炉裏端を一層賑やかな座にします。手鞠は小さな地球儀のような、単純なおもちゃだからこそ、動物と人間が共に遊べるのです。現代の子供たちに人気の携帯型ゲームなどを手にしていたら、猫はおそらくやって来ないでしょう。

 ところでこの句では、「猫」が先に述べられ、人間はその後、「赤ン目」という顔の描写だけで言外に仄めかされています。つまり表現上も、人間は動物に勝っていません。人の子は猫の子と同じ視点から描かれていて、両者が同じ小宇宙の中で共生しているように見えます。一茶は、大人たちが忘れた何かを、この光景にみたと思います。それは、人間が言語を使わなくても他の動物と通じ合えるということ。言葉の話せない子供たちこそが、その能力をもっているということです。一茶はこの句で、小動物と共生する子供の「生き物感覚」を愛でたのです。

        *     *

 近代教育の父・フランスのルソーもかつて、子供がもって生まれる本能を称え、矯正せずに自然の能力を伸ばすべきだと主張しました。

 子どもを愛しなさい。子どもの遊びを、喜びを、その愛すべき本能を助けなさい。(『ルソー全集』所収『エミール』第一篇、白水社)

 また、ルソーは、一茶が何度も経験した子供の夭折という悲劇に関しては、子供がはかない生き物だからこそ、悔いが残らないように、まずは親子が共に遊び、心を通わせ、無駄な早期教育を慎むべきだと記しています。

 快活であるべき年齢が涙と罰と威嚇と隷従のうちに過ぎ去る。父か教師の不条理な知恵の犠牲になって死んだ子どもがどれだけあるか。(中略)くちびるにはつねに笑いがあり、魂がつねに平安であるあの年ごろに対して、ときに哀惜の念をいだかないものがあろうか。父親たちよ、死があなたがたの子どもを待ちかまえている瞬間を、あなたがたは知っているのか。

        *     *

 実は、一茶の掲出句が詠まれたのは、次男・石太郎が生後三か月で窒息死した直後のことです(日記に、この句の数行前には「石太良没」とあります)。ということで、「鳴猫に」の句は哀惜の吟だったのです。しかも石太郎のような三か月の嬰児を詠んでいるとは思えないので、やはり二年前に亡くなった長女・さととの正月を顧みたものとみるべきでしょう。さとは、小動物が大好きでした。『おらが春』(十二)で、ほのぼのとした描写が残っています。

人の来りて、「わん〳〵はどこに。」といへば、犬に指し、「かあ〳〵は。」と問へば、烏にゆびさすさま、口もとより爪先迄、愛教こぼれてあひらしく、いはゞ春の初草に胡蝶の戯るゝよりもやさしくなん

 同文で、さとがおもちゃの風車や障子を破ったりしても、一茶は一切怒らず、逆に「よくした〳〵」と褒めてあげて、老父の寛大さ(溺愛ぶり?)をうかがうことができます。やはり一茶翁の子供の育て方は、小動物と共にのびのびと遊ばせるような“自由教育”だったといえます。一茶を「近世信濃のルソー」と呼ぶのは無理があるかもしれませんが、「アニマルセラピーを利用した自由教育の先駆者」とみてもよいのではないでしょうか。


鬼茨に添ふて咲けり女郎花


 文政四年四月(西暦一八二一年五月)の作(『八番日記』)。

 陽暦の五月です。どう考えても、信州の山里ではまだオミナエシの花を見かけることはないでしょう。茨に囲まれて、哀れな小花に見えたのは、実はオミナエシならぬ、一茶の妻・菊だったに違いありません。

 この四月の二十二日、一茶は善光寺界隈の門人・文路を訪れている際、突如菊が痛風の発作に襲われたという報を受け、門人巡りの旅を繰り上げ、帰宅を急ぎました。飲酒飽食の習慣がないにもかかわらず、三十五歳の女性が痛風の症状をみせるのは、極めてめずらしいことです。不治の病(現代医学でいうと、偽痛風か癌か)と考えられます。一茶は、薬種屋だった文路からこの一報を聞き、身が凍りつくような恐怖と罪悪感を覚えたのでしょう。

 三か月前の石太郎の事故死以降、たしかに彼は菊に対して優しくふるまうことができなくなっていたのです。我が子を思い出して回想の句を多作したり、越後の新しい門人獲得のために駕籠を借りて旅に明け暮れたりして、ほとんど菊に見向きもしなくなっていました。彼が門人の邸宅で酒と俳諧に酔いしれている間は、菊はひとりで農作業をこなし、隣に住む義弟と義母の手伝いもさせられていたのです。二年後の文章「金三郎を憐れむ」の前半で、一茶は次のように妻の病気の原因を見とどめています。

此わづらひ、鬼茨のいらいら敷とげつき合にもみにもまれて、かよはき若木のいたく心をいためる病葉

と、今の言葉でいえばストレスによる病因を認めています。とにかく八月上旬まで、菊は寝たきりの生活を余儀なくされます。それで一茶はその八月まで家を離れず、献身的な看病に専念します。たとえば、五月十五日に越後の門人・雉塘から誘いの手紙が届きますが、ただちに返事を送り、風邪を言い訳にして外出しない旨を伝えています。少し前まで「老妻」と貶めていた菊女のことが、今は俳諧興行や世の中の何事よりもいとおしい花に見えてきました。突然の難病という現実に接した瞬間、一茶は妻に対する深い愛情を再発見しました。「妻の命を守ろう」という「生の本能」がついに、心中に甦りました。そして翌年の三月十日、二人の間に、再び尊い命が生まれるのです。三男「金三郎」の誕生から遡って計算すると、菊の排卵日は文化四年七月九日ごろと判明します。そう、菊が痛風で寝込んでいた最中、病室で二人は愛し合っていたのです。二人の愛は、子供三人の夭死を乗り越えて、不死鳥のように復活していたのです。


蜂の巣の隣をかりる雀哉


 文政四年九月(西暦一八二一年十月後半~十一月前半)の作(『八番日記』)。

 一茶の愛妻・菊の痛風はついに治った様子です。八月上旬、妊娠二か月目に入ったころから、ホルモンのバランスなど体に様々な変化が起きた結果でしょうか、再び歩けるようになり、九月には体調が通常に戻りました。

 そして一茶はこの秋から、なぜか蜂に関心をもつようになります。たとえば「子もち蜂あくせく蜜を[]せぐ也」のような吟が目立ちます。やはり「子もち蜂」という題材には妻への思いが託されているのでしょう。悪阻にもかかわらず、働き蜂のように頑張る菊の姿をひそかに称えていたのです。掲出句でも同じく一茶の感謝の意が託されているといえましょう。以前、「我と来て遊べや親のない雀」の鑑賞(本年三月号)の際述べたように、「雀」といえば一茶自身を象徴するキーワードとして使われることが多いものです。掲出句では、雀よりもさらに小さな動物である蜂が勤勉で賢く、雀(一茶)を守っている、そんな句意こそ愛の告白に聞こえるのではないでしょうか。

        *     *

 蜂を称えた偉人といえば、一茶ばかりではありません。天才物理学者・アインシュタインも次のような名言を残したそうです。「もし蜂が地球上からいなくなれば、人間は四年以上は生きられない。蜂がいなくなると受粉ができなくなり、植物がなくなり、そしてついに人間もいなくなるのだ」とのこと。事実、この名言が予言に、そして現実に変わりつつあります。ここ数年、世界中で蜜蜂の集団失踪が報告されているのです。原因はまだ不明ですが、農薬、遺伝子操作作物あるいは電磁波の影響が疑われています。

 そういえば、南米の先住民文明では蜂鳥が聖なる動物とされていました。長老曰く、ある日、森に火事が起こり、蜂鳥は川まで行き来して小さな嘴で水を運び始めました。すると、何もしないアリクイやアルマジロなど、つまり大きな動物たちは蜂鳥に向かって、「その小さな嘴では、火事なんか消せるわけないだろう!」とからかいました。そこで蜂鳥は、「たしかにそうです。だけど、私は私にできることをやっているだけです」と返しました……。

 僕ら一般庶民も蜂や蜂鳥のような小さな存在です。それでも周りの悪行や事態の深刻化を気にせず、環境を思いやる気持で自分にできることを為し続け、いずれは蜂の巣のような大きな力になれると信じることが肝心でしょう。




 木は木、金は金


はつ雪や御駕[籠]へはこぶ二八そば


 文政四年十二月(西暦一八二一年十二月下旬~一八二二年上中旬)の作(『八番日記』)。

 この句の「二八そば」とは安価なかけ蕎麦という意味になります。江戸後期ではもっとも安いかけ蕎麦一杯の値が十六文(2×8文)に定められていたからこの表現が使われていたそうです。

 信州の十二月、越後からもくもくとした雪雲が迫って来ます。参勤交代で江戸へ赴く武士は、吹雪が始まる前に、慌てて北国街道沿いの屋台から新蕎麦一杯を注文します。「こら、駕籠まで持って来い」と、強引に押し通す声が帳から漏れたのか、街道沿いに住む一茶も耳をそばだてます。「偉そうなさぶらいじゃ、おいら百姓なんかいくら頼んでも、十六文で出前をやってくんねぇぞ」と、愚痴をこぼしながら一句を記します。「御駕籠」は金糸や蒔絵をふんだんに施した、高い身分の乗物を想像しますが、もちろん「御」は嫌みたっぷりの敬語なのです。とにかくどんな豪華な駕籠に腰をかけても、北信濃の雪雲が迫って来るころは、江戸まで吹雪を逃れることはできないでしょう。十六世紀フランスのモンテーニュが書き記した通り、「世界で最も高い玉座に昇っても、われわれが座るのはやはり自分の尻の上である」と。

 ところでこの冬の正月、一茶は還暦を迎え、菊は妊娠七か月目に入ります。そこで妻子の将来を心配して、一茶翁は十一月から柏原の「無尽」に加入します。現在も北信濃の村で時々組まれる相互扶助の金融システム「頼母子講」や「無尽」は、鎌倉時代から日本の農村でみられます。お互いに掛け金を決め、会員それぞれの必要に応じて貸付を行うという制度です。一茶の場合、一年に約三分(一両の四分の三)を、五年間、つまり亡くなるまで掛け続けたそうです。一両を現在の二十万円という平均的な金額に換算すれば、今の言葉でいう「生命保険」に百万円弱を投資したということになります。小額とはいえ、現代の金融システムに比べれば「無尽」の方が柔軟な制度で、地域社会の連帯感を強めるといえるのです。

        *     *

 バングラデシュでは近年、日本の「無尽」によく似た制度が拡大して、「グラミン銀行」(GrameenBank)という全国的な組織となり、貧困層のための小額無担保融資制度(マイクロクレジット)が一国の経済を、草の根のレベルで支えています。グラミン銀行の創立者ムハマド・ユヌス氏は二〇〇六年にノーベル平和賞を受賞し、以降その活動がますます注目されるようになりました。というのは、バングラデシュは地球温暖化による海水位の上昇や大型台風の増加でもっとも悩まされている国の一つであり、今後の経済発展にマイクロクレジットがさらに必要になると予想されているからです。大手金融機関はむろん気候変動で真っ先に苦しむはずの貧しい国々に手を貸すわけがないので、今やマイクロクレジットが第三世界の庶民の最後の頼りになったといわれています。

 そしてこの問題、日本在住の僕らにとっても、他人事ではありません。いずれは地球温暖化が北の先進国にも悪影響を及ぼすようになれば、われわれも「台風保険」や「洪水保険」などに加入したくなるでしょう。ただ、そんな特別な保険が商品として成り立つかどうか、未確定のままです。近年、ロイズ(Lloyd,s)など、いくつかの大手保険会社は危機を先取りして、アメリカ政府の環境担当者に圧力をかけたり、気候変動による被害の予測研究に乗り出したり、保険の新商品を検討したりしています。しかし、予想を超えた趨勢となれば、大手保険会社もお手上げになるでしょう。むしろ日本の伝統的なマイクロクレジット「無尽」のようなローカルな助け合い制度の方が、柔軟に被害に対応できるのではないでしょうか。


つき合の涼しや木は木金は金


 文政五年閏正月二十七日(西暦一八二二年三月二十日)の作か(『文政句帖』)。

 初春に詠まれた句にしては、「涼しや」という夏の季題が読者の意表を突くでしょう。一茶はこの日、長沼(現在の長野市東北部)の門人、吉村雲士宅に泊まります。地主である吉村氏に手厚いもてなしを受けたのか、このような“季節外れの挨拶句”が生まれました。掲出句は雲士宅で巻いた歌仙の発句として詠まれたという可能性もあります。座の「つき合」の爽やかさを称えると同時に、連句の「付合」、すなわち“共同詩作による余情的な交感”に感謝したかったのではないでしょうか。事実一茶はこのごろ、公私とも再び希望がもてるようになります。妊娠八か月の愛妻・菊は柏原で家を守り、安定期特有の満悦な気分を味わっているようです。おそらく妊娠のお陰で痛風が治り、正月だけで六回も日記に「夜交」「旦交」などと、夫婦の房事を語る記載が残っています。

 掲出句に戻りましょう。社交的な挨拶「つき合の涼しや」に対して、一茶は「木は木金は金」という、かなり概念的な格言で一句を締めくくっています。一茶の作意を理解するには、彼が長らく在住した房総地方の文化史に留意すべきでしょう。上総には儒学の伝統が著しく、たとえば稲葉黙斎(一七三二~一七九九)に代表される「上総道学」が一般庶民に多大な影響を与えていたのです。その黙斎の講義録(『講学鞭策録講義録』六二〈黙斎を語る会〉ホームページより)には次の格言がみられます。「金は金、木は木と知たこと。その上はないはづ」と。説明すると、黙斎はその講義で、揉め事を内済で済ます百姓たちを批判し、きちんと公訴で金銭的な便宜をはかるべきだと主張しています。

 一方一茶は、この句で格言を逆さにして「(われわれ百姓俳人に涼しい陰を落としてくれる)木は木、(しかし残念ながら世の中は相変わらず)金は金」と、逆説的なパロディーを吐露しています。ここも近世日本の儒学に対して、つまり武士と商人を支えてきたイデオロギーに対して批判を仄めかし、「百姓は木々や草の実しか持っていないかもしれないが、そんな百姓こそ、爽やかな付き合いを愉しむことができるのだ」と投げ掛けていたのです。

        *     *

 江戸後期の日本は、不思議な構造をした社会でした。封建社会でもなく、近代社会でもないような“過渡的な仕組み”をしていたといえます。当時のいくつかの西欧諸国とは異なり、まだ身分制度が廃止されることもなく、いわゆる「士農工商」の区別がしっかりと受け継がれていました。しかしその傍らに、優れた交通網と流通手段を利用して、商人たちは低い身分にもかかわらず「前・資本主義的社会」を推し進め、実際、武士よりも影響力をもつようになっていました。西暦の一八〇〇年(寛政期)ごろを境に、「士農工商」は事実上「商士工農」という順に変わり、金銭を司る商人たちは次第に武士の生活を操り、それによってその武士たちは農民にさらなる圧力を掛けるしかなかったのです。換言すれば、交通と流通の発展によって投機的な売買が可能になり、世の中で「自然物」よりも「金銭」の方が重要になったわけです。したがって農民や農作税に頼る武士階級よりも、金融業(問屋、札差など)の方が影響力をもつようになりました。西ヨーロッパでも、同じ十九世紀初頭に文化の転換点があり、金銭の力とその恐ろしさを描いたフランスの文学者がいます。バルザックは一茶と同時代に小説『ウジェニー・グランデ』のなかで純情な娘と妻の尊い命を構わず利益を追い続ける商人を諷刺し、次のように述べています。

他のいかなる時代よりも金銭が法律や政治や風俗を支配している現代の本体は、こういうふうに考えるとはじめて恐ろしいほどはっきり浮かび上がる。(中略)この教理が中産階級から庶民の間にもひろまって行ったとしたら、この国はどうなるだろう。

(水野亮訳『バルザック全集』第五巻、東京創元社、昭和四八年)

 二百年後の現在、日本も欧米も、化石燃料をふんだんに使った交通手段と通信技術の“お陰で”、経済の金融化とグローバリゼーションがさらに進み、中産階級のみならず、あらゆる人間にとって「木」よりも「金」の方が尊いものに見えてきました。たとえば、もし一茶が今、長野市にある門人の旧宅を訪ねたとしたら、裕福な暮らしを垣間見ることができても、庭に涼しげな陰を落とす老木を仰ぐことはないでしょう……。(私事ですが先日、庭に苗木を植えました。我が家にとって三本目の木となります。一本目は桜の木で、八年前に僕がこの家に引っ越した直後に植えました。二本目は妻が一年前に引っ越して来た時の記念樹で、杏子の若木です。そして今回は桜と杏子の間に梅の苗木を植えました。というのは、お陰様で妻の妊娠がついに安定期に入ったからです。七月に、梅の実が生るころ、僕らの初めての子が生まれる予定です!)

第六章 独立自尊(妻の死、第四子の死、文政五~八年)






20里山と里川


菜畠やたばこ吹く間の雪げ川


 文政五年二月(西暦一八二二年三月下旬~四月上中旬)の作(『文政句帖』)。

 幸せな一服です。では、この長閑なひと時を小説のひとコマのように心に描いてみましょう。一茶翁と妻・菊は朝から畑を耕しています。すると老俳人はひと休みしようと、川沿いの岩に腰を掛け、酒の竹筒とお気に入りの刻みタバコを取り出します。「菊女、ちょっとお願い! 焚火まで行って、火を付けてくれんかな」と、キセルを差し出します。菊は「また、もぉー」と、溜息と微笑みの混じった表情で近づいて来ます。キセルを咥えて焚火から戻る妻を眺めながら、一茶は得意芸の“団十郎物真似”を始め、伊達男・助六の名せりふを朗らかに唱えます。「~キセルの雨、キセルの雨ぇ~」。菊は吸い付けのキセルを色っぽく渡し、「助六殿、お酒はほどほどにね、この子のために長生きせんと……」と、妊娠八か月のお腹を撫でながら旦那の隣に座ります。もちろん、当時はタバコが(特に妊婦にとって)危険であるという認識はありませんでした。堀切実氏の研究(「俳文の題材・煙草」『俳文史研究序説』、早稲田大学出版部、平成二年)によると、江戸時代では、

たばこ有益論――その精神的効用と社会上の役割を評価する点が支配的である。したがって、当今話題になっている嫌煙権の問題などは、どこを探しても出てこないのである。

 たしかに、アメリカ大陸で発見されたばかりのタバコの葉は、十六世紀からポルトガルやオランダの船乗りを通じて世界中で普及し、日本でもパイプや葉巻から始まり、その後は東南アジアで考案されたキセルでの使用が瞬く間に広まりました。十七世紀初頭にはすでに武士、町人、男女といわず長寿草を愛好するようになったといわれています。幕府は主に火事防止のために一六〇九年には喫煙禁令を出しましたが、それも有名無実、喫煙の習慣は庶民まで伝わりました。

 そうはいえ近世日本の喫煙習慣は、現代の紙巻タバコ大量消費とそれに伴うニコチン中毒に比べれば、さほど有害な吸い方ではなかったといえます。刻みタバコを少しずつ味わっていたのです。そして、現在発売されている大手メーカーの紙巻タバコのように、依存症を悪化させるような無数の添加物が含まれていませんでした。農民の喫煙については、たいてい自分の畑で採れた葉っぱを使用していました。たとえば掲出句の二年後、一茶は「二葉三葉たばこの上に若な哉」という句を詠んでいます。秋から干してあったタバコの葉の上に、新年の若菜を重ねたという句意に、むしろ穏やかな農村生活をうかがうことができます。春が来れば、妻と二人で畑を耕し、タバコの種を蒔いた後、雪解川を眺めながら一服を楽しむのもいい気分ですね……。つまり一茶は、アメリカ大陸の先住民の伝統的なタバコの吸い方に近い喫煙を嗜んでいたといえます。もともとはアメリカ・インディアンにとって、喫煙の時間は“大自然のよろずの精霊と交わるための儀式”であったと、コロンブスの旅日記にも記されています。掲出句にみるような、一茶の野外喫煙もまさに“アニミズム的な儀式”の趣があったのではないでしょうか。

        *     *

 さて、実のところこの句の中心的題材は「たばこ」ではなく、一句を締めくくる「雪げ川」になっているのを忘れてはなりません。雪解けのころ、信州の山川はどろどろとした雪代に染まり、轟きをあげながら渓谷を走り、凄まじい激流となって春の到来を告げます。その雪解け水は種蒔きのための大切な水源として欠かせないものです。冬の積雪は信州人にとって辛いものではありますが、その雪が春の豊かな水に変わってくれるから植物の成長が捗ると、皆が分かっています。そこで最近、地球温暖化による雪不足は、良質な米や野菜果物を育てようとする信州の農民たちにとって、大きな悩みの種になってきたとよく聞きます。

 アジア大陸全体をみても、ヒマラヤ山脈の雪解け水がなければ、多くの地下水が涸れ、大河(ガンジス川、メコン川、長江、黄河など)の泥土が不足し、稲作などに深刻な影響が及びかねないといわれています。実はIPCCの第四次レポートによると、「二〇三五年までにヒマラヤ山脈の氷河が全滅するという可能性が非常に高い」とされています。山の積雪量が激減し、もし氷河がなくなれば、その雪解け水も激減して十三億人もの人間が水不足に悩まされることになるそうです。やはりアジアの村々では、水の豊富な〝里川〟は生活に欠かせない環境だったのです。


寝ころぶや手まり程でも春の山


 文政五年三月十日(西暦一八二二年五月一日)の作か(『文政句帖』『まん六の春』)。

 ここでは一茶の句日記『文政句帖』に拠ります。句の上の日付が「三月十日」となっています。この日の早朝、一茶の三男・金三郎が生まれたのです。もちろん「立会出産」が考えられない時代なので、一茶は前夜から早朝まで居間の畳の上でごろごろして、親戚などと酒を飲みながら出産の知らせを待っていたのでしょう。

 もう一つの出典として『まん六の春』(『一茶全集』第六巻に逸文所収)という俳文集があります。ここでは興味深い前書が残っています。「旧友誰かれ」が集まり、朝まで大酒を飲んだと語っています。ただ、日付が不明です。

終日呑みくらしける程に、門には皓々として月さしかゝり、興つきざる物から、我を忘れて過しけるほどに、三升ばかりも呑みほして、大蛇のごとくのた打ちまわりて、夜の更る迄眠りけり。

 これが本当に出産前夜の光景を描いたものであれば、恐ろしい呑みっぷりといわざるを得ません。が、このごろの一茶の緊張感を考えて、豪飲も許したくなります。というのは、最近まで痛風を患っていた妻はもう直ぐ三十七歳になり、子供三人を幼少で亡くした二人にとって、今回の子が“最後のチャンス”だと分かっていたのです。

 一茶はあれこれを思い出しながら、曙まで陶酔境に明け暮れます。すると、そこの縁側の先、丸々とした春の山がほのぼのと現れます。老俳人は手を伸ばし、子供が手毬を転がすような仕草で、里山の天辺を撫で続けます。「女子かな、男の子かな」とささやきながら……。

        *     *

 縁側、借景庭園など、日本建築には外の自然を室内の生活に取り込もうとする工夫が著しいと思います。宇多喜代子氏も『里山歳時記』(NHK出版、平成十六年、五十頁)で次のように述べています。

瀬音や虫の音を聞きながら眠りにつくというようなことを好ましく思うのは、もしかしたら日本人独特の自然観なのかもしれないと思うのですが、どうでしょうか。(中略)こうした自然観を育んできた場所の一つに「縁側」というものがあった、いま私はそんなことを考えます。(中略)室内なのか室外なのか、どちらともいえないあの縁側というところは、家の内外を繫ぐ不思議な場所です。

 僕も同感です。しかし現代の大都会では、家の近くに里山もなければ、“里川”の瀬音を耳にすることもありえません。そうなれば縁側が無意味になります。過疎地帯で生活する必要はないでしょうが、たとえば中小都市の静かな環境の方が、周りの自然と共に暮らす住まいが可能になるでしょう。僕は今、長野市内の古民家を借りていますが、書斎の窓から常に飯縄山を眺めることができます。エネルギー消費の面からいっても、公共交通機関のある中小都市が二十一世紀の理想的な生活環境になるといわれています。過疎地ほど買い物などの交通が必要ではなく、大都会ほど混雑と渋滞がみられません。これからは、地方都市が二十一世紀の標準的な「里」になればよいのでは?


鳴ながら虫の乗行浮木かな


 文政五年七月十一日(西暦一八二二年八月二十七日)の作(『文政句帖』)。

 前書に「洪水」とあります。台風の時の吟でしょう。水に浮かんだ木片に乗ったまま、コオロギは無残にも鳴き続けています。この光景に一茶がみた“無常観”を理解するには、伝記的な背景をみる必要があるでしょう。この二日前、妻・菊の父親が中風のため亡くなってしまいました。一茶も同じ持病を抱えています。そして、さらなる心配事が老俳人の胸に宿っています。一か月前からなぜか菊の痛風が一年ぶりに再発しました。妊娠が終わって、腎不全だった元の体に戻ったからでしょうか。一茶は、この浮木の虫のように、また運命の波と向き合うことになります。この虫は、五七五で泣き続ける一茶自身の姿だったのです。




21猫の墓


イロハニホヘイトヲ習ふいろり哉


 文政五年十一月十一日(一八二二年十二月二十三日)の作か(『文政句帖』)。

 この日、金三郎が生まれて丁度八か月です。首も据わり“這い這い”が出来るようになりました。もちろん言葉を話すのはまだですが、それでも一茶は“教育パパ”になりきって、様々な単語を教えようとします。「これは囲炉裏、イーローリ」と、炭火を指差すと、我が子はただ呆然としています。「うん、じゃ、囲炉裏の次はいーろーはーの歌」と告げると、金三郎は眼を瞠って父親へ「イ、イー」と笑い声を上げるのです。「そうだ、そうだ! イロハニホヘイ」と、一茶は朗らかに唱えます。宮川洋一氏(『北信濃遊行――小林一茶「九番日記」を読む』、オフィスエム、二〇〇五)が述べたように、

イロハニホヘトでなくて……ホヘイトというのが、いかにも田舎風でいい。家族が囲炉裏を囲んでいた頃は、子どもが知りたいと思うことを自然に教えていた。今の家庭は囲炉裏がテレビに変わり家族の会話がないため、親子断絶、家族崩壊の要因にまでなっている。文明は人間性を破壊するものだろうか。

 たしかに、江戸時代の農村、とりわけ豪雪地では冬籠の時期となると、子供たちが囲炉裏端で終日勉強に励むのは普通の光景だったようです。近世信濃の子供たちの学問水準について、土屋弼太郎氏(『近世信濃文化史』、信濃教育会出版部、昭和三十七年、一六五~一七〇頁)は、寛政期に全国の寺子屋の六分の一が信州にあり、最も教育施設の多い地方だったと指摘しています。一茶の出身地・上水内郡では、寺子屋師匠の半分以上が農民の出であり、宗教家や武士が非常に少なかったといいます。信州はのちに「教育県」とも呼ばれましたが、江戸末期からその伝統があったわけですね。

 一茶の文才も、そんな教育熱心な北信濃の環境によるものかと思われがちですが、彼は逆に思うように勉強をさせて貰えなかった子でした。読み書きを習いたかったのに、継母に農作業の手伝いを押し付けられていたことを、『父の終焉日記・別記』で書き記しています。

春さり来れば、はた農作の介と成て、昼は終日、菜つみ草かり、馬の口とりて、夜は夜すがら、窓の下の月明りに沓打、わらじ作りて、文まなぶのいとまもなかりけり。

 だからこそ一茶は、絶対に我が子には同じ思いをさせたくないと、熱心に幼児教育に携わろうとしていたのではないでしょうか。

        *     *

 近年、小学校における「環境教育」の必要性が問われるようになりました。もちろん、ドキュメンタリー映画を見せたり専門家を招いたりして、環境問題について児童の意識を高めるのは良いことです。しかし何より、学校全体が模範的な“エコロジカル空間”であれば、自然と子供たちの習慣が変わり、次世代から世の中が変わるでしょう。たとえばフランスの小学校では、ボールペンではなく、万年筆で字を書くことが義務付けられています。僕の姪たちも、長く使えるような立派な万年筆を親に買って貰い、それを大切に扱っています。ポンプ式ですから、インクの瓶を分別してゴミに出せば、一切ゴミを増やさない筆記用具といえるのです。


馬の屁に吹きとばさるゝほたる哉


 文政六年三月十四日(一八二三年四月二十四日)の作か(『文政句帖』)。

 金子兜太氏(『小林一茶』、小沢書店、一九八七)が述べたように、晩年一茶の句は「いささかゲテものがかってくる。おもしろいが、好句とはいえない」と評することができるかもしれません。一茶俳諧は、優雅な視覚的描写(写生)に終わらず、実感をもって様々な生活の匂いを積極的に詠んでいます。最も多い「嗅覚的題材」といえば一応伝統的な「梅が香」が上位ですが、次位には「屁」「煙草」「煙」「汗」という順になっています(拙著『一茶とワイン』「匂」、角川学芸出版、平成十八年)。ただ、晩年には人間の屁が増えゆくものの、動物の屁に関しては初期から一茶がごく自然に題材にしていたと認めざるを得ません。たとえば掲出句の類句「馬の屁に目覚て見れば飛ほたる」が寛政四年の句帖ですでにみられます。つまり近世日本の農村では、人間、馬、牛が雑居する家が多く、曲屋という建築様式の場合、馬屋と民家が繫がっていて、動物の体温が暖房代りに利用されていたのです。その代償として草食動物に多い屁や噯、排泄物などの匂いを我慢するしかありませんでした。芭蕉も『おくのほそ道』の旅で陸奥の僻地を訪れ、「蚤虱馬の尿する枕もと」という奇句を詠んでいます。一茶の掲出句と同様、それほど通俗的な諧謔を狙ったものではなく、単に農村の実生活に即した吟とみてもよいでしょう。

        *     *

 温室効果ガスのなかで、二酸化炭素(CO2)だけではなく、メタンガス(CH4)も大変な脅威になっていることを忘れてはなりません。現在、温室効果の原因の約二割がメタンガスによるとされています。主に牧畜動物のゲップ、ガス、排泄物と、稲作の湿地や可燃ゴミの発酵によって排出されているそうです。しかも二酸化炭素に比べれば、百年後には二十一倍、五十年後なら百倍以上の温室効果があるといわれています。つまり大気に急激な影響を与えますが、その分、減らせば早く結果がみられるので、真っ先にメタンガスの問題に取り組むべきと主張する学者が多いです。解決案として、草食動物のゲップとガスを減らすような飼料の開発、排泄物と可燃ゴミの燃料化(バイオガス)など、比較的、二酸化炭素排出量削減よりも簡単な措置が取れるといわれています。

 たとえば草食動物に関しては、スポーツウェア・メーカーTimberlandは、靴の生産に当たって牛革を使っていますが、その牛の飼料を変えただけで、温室効果ガス排出量の十七%を減らすことに成功しました。そのメーカーの靴はやや割高ですが、僕も昨年一足購入しました。屁をしない牛の“エコ靴”なんて、ちょっとオシャレでしょう?


梅さくやごまめちらばふ猫の墓


 文政六年四月(一八二三年五月上中旬~六月上旬)の作(『文政句帖』)。

 古女すなわち小魚の田作りは、江戸期の農村でもお節料理に使われる保存食でした。保存食とはいえ、春先になると余ったものがあれば食べられなくなります。一茶はきっと早春のころ、厨にあった田作りを集め、庭奥の猫の墓に供えたのでしょう。野良猫が食べるかと思いましたが、そのまま腐り、隣に咲く梅の肥料になりました。ある四月の朝、ふと猫の墓を見ると、なぜか涙が止まらなくなりました。そして口ごもりながら独り言を吐きました。

 「ああ、花が散るころ、菊女はもう死んでるかや……」

 愛妻・菊の痛風の症状は、金三郎の出産後に再発し、のちに小康がみられたものの、この前の二月十七日から癪(腹部の激痛)がいつになく酷くなりました。一茶はその日、善光寺町から駆けつけ、家事手伝いを雇い、以降数か月間菊に付き添って治療に専念します。門人のなかには医学の専門家がいて、善光寺町、野尻、妙高などから訪問診察や見舞いが相次ぎ、菊にニンジン湯、ヤマトリカブト、甘遂などを呑ませますが、薬を吐いたり、新たにめまいを訴えたりして、ついに体中に水腫が現れます。四月には絶食状態となり、一茶は隣村の古間から金三郎のための母乳を買いに行きます。数日後、菊の乳がまったく出なくなったため、息子を乳母に預けることにします。一茶の門人で薬種屋の上原文路との文通のなかで、菊の便の分析を試みる「一茶の医学的知識の豊富なのに驚かされるが、妻に対する献身的な愛情にも胸を打たれる」(矢羽勝幸『一茶大事典』、大修館書店、一九九三、一五六頁)といえます。三か月間、句日記のほとんどの記載が菊の治療に関するものです。たしかに一茶は菊の発病にあたって罪悪感を抱いていたかもしれません。俳諧師の仕事のため頻繁に家の留守を妻に預け、その度、隣に住む義母のうるさい注文が菊の精神状態を損なっていたのです。また、一茶が菊に性病(梅毒)をうつしていたという説もあります(小林雅文『一茶と女性たち』、三和書籍、二〇〇四)。

 とにかく一茶は妻のことをだれより愛していたに違いありません。五月十二日の暁、春の花々とともに、小林菊はこの世を去ります。一人の赤ちゃんを残して、亡くなった三人の子供の元へ旅立ちました。享年三十七。一茶が最も愛した女性でした。




22“心の癌”


藪菊や親にならふてべたり寝る


 文政六年五月二十八日(一八二三年七月六日)の作か(『文政句帖』)。

 一茶の妻・菊が亡くなったのは、この吟の十数日前、五月十二日の早朝です。葬儀のために多くの親戚が訪れ、赤渋という隣村の乳母に預けられていた三男・金三郎も呼び寄せられます。そこで、一か月ぶりに我が子と再会する一茶は、さらなる衝撃を受けます。五月十三日付の文章「金三郎を憐れむ」(『一茶全集』第五巻所収)のなかで、一歳児の病弱な姿をビビッドに描いています。

赤渋にやらぬ前、けら〳〵笑ひて這ならひたる体とはくはらりと変ひ、おとろへたるありさま、腹は背にひつゝいて、其間うす板のごとく、骨はによき〳〵高く、角石山に薄霜降たるに似たり。声はかれて蚊の鳴に等しく、手足は細りて鉄釘のやうに、目は瞳なく明たる儘にて、瞬ちからぬけて、半眼して空をにらみ、軽ろきこと空蟬の風に飛び、水を放れたる魚の片息つくばかり也。

 病児を空や窒息寸前の魚に喩えたりして、いわば十九世紀フランスのレアリズム文学、バルザックなどでも稀にしかみないような、臨場感溢れる描写といえます。よほど金三郎の哀れな姿が目に焼き付いていたものでしょう。

 そしてその晩、菊の火葬が終わり皆で同じ部屋に並んで寝付いたころ、一茶は乳母の余所余所しい態度が気に掛かり、その寝姿を盗み見ることにします。なんと「乳を呑する真似して、やがて口に水あてがふ」ところを目撃します。ただちに「灯かき立て」、親戚全員に乳母のふるまいを見せると、「生あるものをかくむごく、情なく、つれなくふるまひしもの哉と、しるもしらぬも皆〳〵涙ほろ〳〵なでさすりぬ」とのこと。事実この乳母は、乳が出ないのに一か月間一茶から育児費を貰い、金三郎を死なせようとしていたのです。一茶は即日別の乳母を探し、中島という村に子宝を託すことにします。

 掲出句の「藪菊」はもちろん、菊の遺児・金三郎を指します。病弱なところまで母親に似ていたのです。一茶はこれから毎日、庭の藪菊を見る度、亡き妻のことと、辛うじて生き残ってくれた金三郎のことを思い出すのでしょう。

        *     *

 今までも何度か書きましたが、一茶句の多くは人間が他の自然物に“象徴”されるような、いわゆる“二重写し”の句意になっているといえます。たとえば一茶自身は「雀」、菊は初婚のころなら「時鳥」、その後は「菊花」、そして最後は「蜂」に代表されています。また、長男・千太郎は「蛙(瘦せ蛙)」、長女・さとは「蝶(死後はその他の昆虫も)」、次男・石太郎は「さざれ石」、三男・金三郎は「藪菊」の姿を借りたことを確認できました。しかもほとんどの吟の場合、自然物が単に“キーワード”として詠まれているのではなく、実際に動植物を描いたような臨場感も伴っています。つまり一茶は自然界を眺めていても、動植物が人間に見えていたということです。

 二十一世紀にも、この“一茶の眼差”に近い世界観は、アメリカン・インディアンの文化において根強く残っているといえます。フランスの生態学者J=M・ペルトが述べるように(Jean-MariePELT, Nature et spiritualité, Fayard, 2008,

p.32、私訳)、コギ族にとって、

風土全体が人間のような生命体に見えている。川は血液、風は呼吸、森林は体毛、岩は骸骨といわれている。その物の見方によって、すべての要素が全体のバランスに不可欠であるという世界観が成り立つ。

 およそ一万二千年前、氷河期のころ、アメリカン・インディアンの多くの先祖は凍りついたベーリング海を経由して、極東からアメリカ大陸へ移住したといわれています。彼らは自然環境のバランスを壊さないように主に漁撈、狩猟、採集で生活し、アニミズムに基づいた平和的な社会を持続させてきました。その文明の源流が縄文時代の極東にあったと思うと、近世日本の地方にみる自然観は特別な意味をもつようになります。ある意味で、一茶のような地方俳人は、アメリカン・インディアンやシベリア諸族のシャーマンたちと同じような眼差で自然を仰いでいたといえるのではないでしょうか。


涼風に正札つきの茶店哉


 文政六年六月(一八二三年七月ごろ)の作(『文政句帖』)。

 「正札つき」とは、値札のとおり料金を取る、すなわち安心できる店を意味します。掲出句は柔らかいサ行の音節が続き、音韻的にも爽やかな印象を受けます。一茶はこのころ、少しばかり心の平穏を取り戻していたようです。六月上旬、妻の喪の悲しみを癒そうと、妙高高原の蔵々という村まで旅に出ます。妙高の脇往還に宿を営む門人・後藤甫外は思いやりのある人格者で、わざわざ「一茶先生女房追善句会」を設けてくれました。柳沢清士氏(『一茶全集』月報、昭和五十三年、第五巻付録)が述べたように、「晩年の一茶と越後門弟(妙高俳壇)とは、いわゆる句友関係だけではなく、深い人間的なきずなで結ばれていた」のです。仲間の中心的人物・甫外は一茶より二歳年少で、様々な事業に成功した裕福な地主とはいえ、心から学問と俳諧を愛し、金銭を惜しまない商人でした。一茶はきっと甫外の宿で夕涼みのお茶を啜りながら、ありがたく思ったのでしょう……「そうか、商人でも、この甫外のような、気前のいい人もいるんだなぁ。そして百姓には、ぼろ儲けして赤子を死なせる乳母だっているさ。やれやれ、金三郎のためにもう少し生きていこう!」と。

        *     *

 日本では江戸時代から、交通と流通の目覚ましい発展が市場経済の基盤を作り、一種の「前・資本主義社会」が築かれたといえます。鬼頭宏氏(『環境先進国・江戸』、PHP新書、二〇〇二、一四三頁)が指摘するように、

江戸時代は静態的な社会ではなかった。農業社会の枠内ではあったが、市場経済が社会の隅々まで浸透し(中略)、それが刺激となって生産も人口も成長した。

 つまり江戸の商人たちにとって、生産の継続的な成長がすでに当たり前となり、それによって毎年利益が増えるのが常識になっていたといえましょう。当時から物質的な豊かさの拡大、すなわち「経済成長」がいつまでも続くだろうという概念が芽生えていたのです。たとえば江戸の店主たちは、一茶のいう“正札”を守らないで“掛け値”を決めたりして、ずる賢い手法で利益を上げようとすることもありました。いわゆるモラルの伴わない経済成長が早くも問題になっていたと、一茶は教えてくれるのです。

 現在資本主義の国々では、“経済成長優位主義”が一層深刻な問題を起していることは、言うまでもありません。たとえばイラク戦争は八千億ドルという膨大な資金を費やして二〇〇八年まではアメリカ経済の成長を支えてきたといわれていますが、モラルの観点からみれば「悪成長」と呼ぶべきでしょう。現行のGNP計算法では、物・人間・環境を傷付ける活動も、それらを修復するための活動も同じ「成長」として加算され、不条理な経済観が基準になっています。さらに、明らかに「悪成長」ではなくても、「地球」という限られた環境においては(とりわけ世界人口が増え続けた場合)、「永遠に続く経済成長」そのものが不可能であるという当たり前の法則を認めざるを得ないでしょう。

 「永遠に続く経済成長」という妄想はいわば「現代社会の癌」のようなものといえるのではないでしょうか。医学によると、成長が留まらずいつまでも細胞が増え続けるという病気は総称して「癌」と呼ばれます。癌腫瘍の成長が進むに連れて、体の様々な機能のバランスが損われ、最終的には死に至るのです。健康な生命体なら、植物であろうと動物であろうと、あるところまで成長を成し遂げたらそのまま止まり、内面的な機能や特技の改善に力を入れるようになります。この生物学の原理は、人間社会にも当てはまるのではないでしょうか。

 つまり資本主義社会の人間は日に日にさらなる物質的な豊かさ(経済成長)を欲しがりますが、本当のところ、ある程度裕福になったら物質的な発展をやめ、文化的・精神的な発展に切り換えた方が健全であるという原理です。ドイツの哲学者・ショーペンハウアー(『意志と表象としての世界』第一巻、私訳)いわく、

唯物主義の掟が真実の掟であるというなら、世の中すべてが明解になる筈だ。表象の謎もなく、方法論だけが問題になる。

 簡単にいえば、人間はやはり物だけでは生きていられません。それを承知してもわれわれ現代人はなぜか「唯物主義」という〝心の癌〟に、日に日に蝕まれてゆくのです。




23独り者の知恵


小言いふ相手もあらばけふの月


 文政六年九月十一日(一八二三年十月十四日)の作か(『文政句帖』)。

 この夏まで九年間連れ添った妻・菊は、時々小うるさいところがありました。しかし今思えば、相手をほっておけないという性格には、彼女の優しさが表れていました……。毎日目の前にいる人が亡くなって初めてその心を理解するということ、人生の耐え難い皮肉ですね。一茶は八月には〈小言いふ相手のほしや秋の暮〉〈小言いふ相手のことし秋の暮〉、九月には〈小言いふ相手は壁ぞ秋の暮〉など、類句を多く書き並べています。この秋、夫婦の思い出を延々と嚙みしめていたようです。加藤楸邨(『一茶秀句』)が述べたように、「この情はまことに人を惹きつけるものがある」と。楸邨は一方、掲出句の類句の多さに関して「いろいろ工夫されているようであるが、どれも、同じもの足りなさを感じさせる」と批判しています。ところが、一茶句の鑑賞に当たって、忘れてはいけない事実があると思います。それは、(『おらが春』のような俳文集を除けば)出典のほとんどが日記であるということです。

 『七番日記』だけ一茶自筆の題名が残っていますが、それまで同じ分量の句日記が六編もあったかと考えると、気が遠くなるほどの句数が推測されます。つまり多くの資料が紛失したのに、現在は二万句以上が知られ、一茶は世界文学史上最も作品数の多い詩人であるということになります。しかも先ほどの日記の番号の付け方によれば、少なくともその倍の四万句を実際に作っていたと考えられます。やはり、一茶は四万句のすべてを後世に残そうと思って日記に書き留めたわけではないと認めざるを得ません。彼は、芭蕉のように推敲を重ねて約千句まで作品数をしぼろうとは思わなかったし、蕪村のように自選の個人句集を編んだこともありません。秀句と類句と駄作(完成度の低い作品)を同じ日記に並べ、ある意味で選句の作業を後世の読者に任せていたといえます。その“ありのままの創作姿勢”はのちに一茶の名声を低めたという半面もあります。もし現存する二万句を厳選して芭蕉全句と同じ千句にしぼったら、秀句ばかりが並ぶのではと思えてなりません。

 日常の一瞬一瞬を記録する「句日記」は、一茶俳諧に多い「生涯句」というジャンルに相応しい“創作工房”だったともいえます。一茶はどの近世俳人よりも「私生活」、とりわけ「家族」という題材を迫真に、そして生々しく描こうとしました。当時、俳諧という「座の文学」は、一種の“ブルジョア的趣味”や“遠慮がちな社交性”に支配されていたといえましょう。それを取っ払い、「家族を中心とした世界観」を発句や俳文の題材にしたのは、一茶が最初です。そしてその「家族を中心とした世界観」こそ、現代の一般読者を惹きつけるものであります。フランスの哲学者L・フェリーが指摘したように(LucFerry, Familles, je vous aime : Politique et vie privée à l,âge dela mondialisation, XO,2007)、グローバリゼーション以降の現代社会では祖国、階級、企業などといった大きな共同体の求心力が薄れ、核家族の縁(夫婦愛、親子愛など)が主な価値観の基盤になりつつあるといいます。結果的に伝統的な「男社会」にみるような国境や社会的地位のための争い事が減り、世の中が「女性的」ともいえる「家族を中心とした世情」に変わってきていると述べています。ある意味で、掲出句にみるような晩年一茶の家族愛の吟は、現代社会の本質的な変化を先取りしていたといえます。そして、現代における一茶句の人気も説明できます。とにかく一茶は、小言をいう“女性的な人情”を偲び、失われた家族の温もりを思い出しながら、男社会の冷たさを痛感していたのです。

(昨日、超音波検査で初めて我が子の性別が判りました。願っていた通り、女の子です。彼女のミドルネームは、一茶の愛娘にあやかり「Sato」と名付けることにしました。今、妻の妊娠が判明した日に植えた梅の木は、庭で見事な花を咲かせています)


小便も玉と成りけり芋畠


 文政六年九月十四日(一八二三年十月十七日)の作か(『文政句帖』)。

 通俗の極まりと言われるかもしれませんが、用を足す時の“快楽”は、実に深遠な文学的題材にもなります。一茶のみならず、風流人・谷崎潤一郎も「便」について名文を遺し、『陰翳礼讃』で次のように書き記しています。

 漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ生理的快感であるといわれたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、格好な場所はあるまい。

 増して一茶句にみるように厠の小屋もなく、ただ大自然のなかで用を足す時、言語に絶するほどの原始的な感興を堪能することもあるでしょう。排泄物は畑の天然肥料となり、芋は大きな玉に成長し、再び人間のための栄養になってゆきます。そして自分の土地を“マーキング”したような、自然環境との深い一体感も味わえるでしょう。この通俗的なひと時を軽快に表現する文学者こそ上品な作家だと、僕は思います。「通俗」と「下品」はまったく異なるものですから。「便」という自然のものを独創的に描くことは、通俗的ながら、決して下品な創作ではありません。他人の真似をして優雅な名作をなぞって句を詠んだ方がよほど下品な文芸といえるのではないでしょうか。

        *     *

 江戸時代までは排泄物に対して、僕ら現代人のように嫌悪感を抱くことはありませんでした。むしろそれが大切な肥料とみなされ、「農民は排泄物をただ持っていくのではなく、買い取ってくれた」のです(石川英輔『大江戸リサイクル事情』、三二七頁)。しかし明治以降の日本は、欧米の下水処理施設を真似て、大切な肥料とバイオマスの原料となり得る下肥を単に“処分”するようになりました。そもそも欧米でも十九世紀までは排泄物の再利用が一般的でした。産業革命以降、公衆衛生を理由に膨大な水源とエネルギーを必要とする下水処理施設が考えられたのです。石川英輔氏(同、一七四頁)が述べるように、

 ビクトル・ユーゴーは、『レ・ミゼラブル』の第五部二編のすべてを、パリの下水道の批判に費やしているが、肥料価格にして五億フラン分の屎尿を川に流す結果として、土はやせ、川が病気を運ぶため、「下水道は誤った考えである」と結論を下している。

 そういえば、今日の日本では、一般家庭の水道水消費の約三割がトイレからくるといわれています。トイレのタンクにペットボトルを入れたりして、水道代を減らそうとする人もいますが、徹底的な解決策として「バイオトイレ」という最新のテクノロジーが世界的に注目されるようになりました。かつての汲取式のトイレとは大きく異なり、無臭の可燃ゴミが少々出るだけとのことです。いつか僕も、ログハウスタイプのバイオトイレを庭に建て、風流にしてエコロジカルな“ハイテク厠”で寛いでみたいですね!


湯上りや裸足でもどる雪の上


 文政六年十月(一八二三年十一月)の作(『文政句帖』)。

 妻・菊が亡くなり、遺児・金三郎が乳母に預けられ、一茶はこの秋から再び独り者の生活になります。十月中旬、志賀高原の温泉郷・湯田中に十三泊します。心ある門人・湯本希杖は旅館の主人であり、一茶のために別荘を用意してくれました。山の熱を、そのエネルギーを思い思いに吸収し、老俳人は“心身の充電”を果します。湯田中は初冬から雪が積もる山地ですが、湯上りなら素足でも雪の冷たさを感じることはないと、素朴な驚きを詠んでいます。サウナの後の冷水浴のような快感でしょうか。一茶は前年も冬の湯田中を訪れ、俳文「田中川原の記」(『一茶全集』第五巻所収)で「湯が福〳〵と出て」里人が貧しいながら幸せそうに生活していると書き記しています。特に、村の子供たちの生き生きとした描写が鮮やかです。

 貧しきものゝ子をやしなふには、湯のわく所にしくはあらじ。(中略)兄は弟を負ひ、姉は妹を抱きつゝ、素足にて門を出れば、それに引つゞきて迹からも其迹からも走り〳〵て、湯桁にとび入りつゝ、今玄冬素雪(冬)のころさへ丸裸にて狂ひ育ちにそだつ物から、おのづから病なく、ふとくたくましく見ゆ。

        *     *

 現代においても、環境に優しい暖房と電力源として地熱を利用したヒートポンプが注目されています。アイスランドでは今や住宅暖房の七割が地熱で賄われています。日本も温泉大国です。しかしなぜか、信州のホテルや北海道のレストランなど幾つかの先駆的な施設を除けば、膨大な地熱の恵みが置き去りにされているのではないでしょうか?




24老人の独立自尊


蠅よけの羽折かぶつて泣子哉


 文政六年夏(一八二三年夏~秋)の作か(『文政句帖』)。

 還暦を迎え、妻・菊を失った文政六年、一茶は急に老け込んだ様子です。このころから句日記の記載は次第に乱れていきます。上段に見る私生活に関する記載と、下段に見る発句の制作時期がほとんど合わず、たとえば掲出句は夏の作でも上段には文政六年冬の出来事が併記されています。私見によればこの句は、一茶が乳母を訪ねて、遺児・金三郎を見舞った時の吟でしょうが、定かなことはいえません。

 金三郎はいよいよ一歳半になります。しかし甚だしくひ弱な姿をしていて新生児にしか見えません。今の乳母は乳がよく出て懇ろにオムツを変えたりしますが、この季節は蠅が赤ちゃんの周りに群がり、伝染病などが心配です。一茶は俳諧師の羽織を脱いで、わが子に被らせてみます。「金三郎、泣くな。ほら、父っちゃんと同じ“羽織貴族”になったぞ……父っちゃんは五七五でいっぱい稼いでくるから、元気になれよ!」とささやき、老俳人は涙をこらえて乳母の家を後にします……。

 しかし掲出句の真上、日記の欄にはその次の冬の出来事が記されています。「[十二月二十]一[日] 晴 幸三郎没」。一茶にとって、わが子の死は連続で四人目です。母親の死後、初めは不誠実な乳母に預けたせいで、金三郎の栄養失調は治らないと言われてきましたが、それでも一茶にしてみれば諦めがたいものがありました。彼はこれ以上、わが子の誕生を目にすることはありません。そしてこれからの日々のほとんどは不機嫌な老人という仮面を被って、人生最後の五年を過ごすことになります。


慈悲すれば糞をする也雀の子


 文政七年四月十八日(一八二四年五月十六日)の作か(『文政句帖』)。

 加藤楸邨(『一茶秀句』)が述べたように、

巣から落ちた雀の子を掌の上に乗せ、頭や背を撫でていたわってやる。すると雀の子は糞をしてしまったのだ。(中略)こちらの気持があだになった、やりきれない気持を詠んでいるのである。

 たしかに、語意に沿って読めば、それだけでも心に残る句です。一方、一茶の深層心理において「雀の子」が自己の子供時代の哀れな姿を意味するものでもあるのを忘れてはならないでしょう(第十二回「我と来て遊べや親のない雀」の鑑賞を参照)。ところで掲出句の真上、私生活に関する日記の欄には「一茶夜尿」とあります。このころ、中風、豪飲、高齢が相俟って、一茶の夜尿症が酷くなっています。もてなしてくれた俳友の高級布団に寝小便を垂らしたりして、何度も恥ずかしい思いをしたようです。つまり、友人が「慈悲すれば尿をする也一茶翁」という句意も行間に詠まれているのでしょう。老俳人は再び子供のように寝小便をするようになり、〈雀の子〉すなわちひ弱な孤児だったころと同じ心境に戻りました。かつて親の愛情に飢えていた雀の子は今、日本中の俳人に称えられても、「オシッコしか出ないぞ」と、捨てゼリフを吐いているような気がします。

        *     *

 フランス最高のシャンソン歌手エディット・ピアフ(一九一五~一九六三)も、「小雀」(パリの俗語で「Piaf」)という芸名を選び、情感をこめて悲惨な運命を歌ったことで知られています。彼女の人生は実に、一茶の一生を思わせるものがあります。

 パリの貧しいベルヴィル地区に生まれ、幼少のころ母親に捨てられ、ノルマンディー地方の僻地に住む祖母に預けられます。十五のころパリへ行き、街角のシャンソン歌手となり、二年後愛人から娘を授かります。しかしその子は小児性髄膜炎を患い、わずか二歳で急逝します。その年、悲しみから立ち直るために、彼女はシャンソンに打ち込み、キャバレーでプロデビューを果たし、芸名をエディット・小雀と改めます。三十歳代からは名声が高まり、ボクシングのワールドチャンピオン、マルセル・セルダンと大恋愛をします。そこで、二人が出逢って一年後、セルダン選手は彼女に頼まれて飛行機でアメリカまで会いに行きますが、墜落事故で不帰の客となります。のちにピアフは「一生の男」に名曲「愛の讃歌」を捧げ、以降癌とモルヒネ中毒と戦いながら最晩年まで愛の歌を発表し続けました。

 ピアフも一茶も、幼少から愛情に飢えた小雀でした。だからこそ二人とも、晩年には慈愛に満ちた歌を聞かせてくれたのだ、と僕は思います。事実、二人が唱えた「愛」というヒューマニズム的原理は、地球温暖化時代の子供たちにとっても大切な示唆を与えてくれているのではないでしょうか。フランスの生態学者・J=M・ペルトは、近著『自然と精神性』の結論において次の説を唱えています(Jean-MariePELT, Nature et spiritualité, Fayard, 2008, p.283、私訳)。

現代の若者はマクドナルドなどで腹を満たしているかもしれないが、精神的には栄養不足なのである。そうはいえ若者たちは何か別のものを求めている。たとえば、エコロジーの問題に対して格別に関心を示している。現代社会は常に多くのハイテク商品で彼らの時間を奪い、物事を考える暇さえ残さないのは事実だが、それでも彼らは若者らしく、必死で心配しながら、世界中でもっと明るい将来を夢に描いている。結局われわれに必要なのは、新しい文明そのものである。「愛の文明」とでも呼べばよいのか。


目出度さや膝垢光るころもがえ


 文政七年五月二十八日(一八二四年六月二十四日)の作か(『文政句帖』)。

 五月十二日、一茶は二番目の妻、飯山藩士の娘・田中雪(三十七歳)を迎えます。前妻菊の他界からはや一年が経ちました。向かいに住む本家の親戚が心配してくれて、いつの間にか縁談がまとまりましたが、一茶は気乗り薄な感じです。最近、門人宅でだらだらと居候しながら毎日のように夜尿で恥ずかしい思いをする老俳人にしてみれば、今さら武家の箱入り娘を貰うのはさぞ勇気が要るでしょう。

 とにかく五月十二日の朝、一茶は慌てて顔の汗を拭き、一番お気に入りの甚兵衛羽織と短ズボンを身にまといます。草庵の玄関で正座して、“お雪”が現れるのを待ちます。ふかぶかと頭を下げると、困った! 膝の垢が見えてしまいました。雪は一瞥を投げます。一瞬で身分の差を互いに実感し、二人はぎこちない空気に包まれます。そもそも雪は、初婚に破れ苦い失恋から立ち直ったばかりで、百姓出身の俳諧師と結婚を押し付けられたとはいえ、薄汚い老人の世話をみるつもりはありません。一方の一茶は、この年まできて、良家の子女の優雅な振舞いに生活を合わせようとは思いません。そのころの作品に「貧乏蔓にとり巻かれてもぼたん哉」があり、幻滅の念がうかがえます。結局二人の新婚生活は五月十二日から二十三日までの、正味十二日間で終わります。一茶の“お漏らし”の面倒や隣家に住む義母の注文に耐えられなくなった雪は数日間実家に帰ったり、その後は一茶が彼女の帰宅を避けるかのように一か月以上旅に出たりして、すれ違いの生活が続いたあげく、七月十二日には離縁が正式に決まります。矢羽勝幸氏(『一茶新攷』、若草書房、一九九五、一八三頁)が指摘した通り、「自分の生活がすでに確立していて新婚といってもその生活ペースを壊すわけにはいかなかったであろう」。

        *     *

 農民の服装のまま武士の娘を迎え、泰然として自分の生活を変えようとしない一茶翁の姿は、僕の眼にはなぜかインドの独立運動家M・ガンディーの姿勢と重なります。ガンディーはイギリス製の綿製品を一切着用せず、自織によるインドの伝統的な服装を着るように呼びかけ、生涯「非暴力」と「不服従」の精神を貫きました。たとえばロンドンの国会議事堂を訪ねた時も、彼は腰巻と草履で表敬訪問に臨みました。晩年の一茶もしかり。武士や江戸の俳人たちに対して、堂々と信州の百姓の姿を披露し、自作においてその質素な世界観を称えました。晩年のころは風刺の句で他人を説教しようと思わなくなり、実に作品と生活そのものが「独立自尊」のお手本だったといえましょう。ガンディーいわく「Youmust be the change you want to see in theworld」すなわち「世界に変化を望むのであれば、あなた自身がその変化になればよい」と。たとえば、よりバランスの取れた人間と自然の関係を望むのであれば、ひたすらにエコロジー談義で他人を説教するのではなく、日常生活において自分を変えてゆけばよいということでしょう。




25人間よ、人間的であれ!


もどかしや雁は自由に友をよぶ


 文政七年閏八月九日(一八二四年十月一日)の作か(『文政句帖』、掲出句は俳文「舌廻らぬ病」に拠る)。

 妻と子供四人の死、再婚の失敗などを経て、一茶はこの秋、自棄酒に溺れようと思ったのか、毎晩の酒量が増え続けます。豪飲のあげく、閏八月一日には中風が再発し、言語障害に陥ります。句日記に、震える手で「不言病起」と記し、九日には掲出句を書き付けます。数日後、門人・雲里に宛てた手紙(俳文「舌廻らぬ病」『一茶全集』第五巻所収)のなかで、次のように悔しさを吐露します。

八月一日、ふと舌廻らぬやまひの起こりて、皆、手まねして、湯水を乞ひつゝ、さながら啞のありさま也。(中略)本の通りにならんことを希ふ。

 人間は健康を損なって初めてそのありがたみを実感します。えいと鳴き声を交わし北方から優雅に飛んで来る雁たちを目にして、老俳人は叫びたくなったのでしょう。「俺も生きている。友よ、俺を見捨てないで!」と。そして「体の不自由」を知ったからこそ、「表現(心)の自由」を得ることができました。つまり「自由」という、当時大変珍しかった単語を独創的に使えたのです。宗左近(『小林一茶』、集英社新書、二〇〇〇)が指摘したように、

自由、これはむろん中国から伝来した言葉です。しかし、堅苦しくて、日常の場ではほとんど使われなかったようです。江戸の俳人にも、あまり好まれませんでした。これを使ったのは、逆に、一茶がそこに新しみを見たためではないでしょうか。

 一茶はいわゆる身体障害者となり、生きる喜びの根源が「心の自由」にあると悟りました。この概念はのちに近代民主主義や実存主義の支柱となりましたが、病と闘った多くの芸術家の人生観と重なるものもあります。たとえば一茶と同時代を生きたドイツのベートーヴェンは、晩年には聴力を失い、そのころから非常に自由な発想をもつようになり、大合唱「歓喜の歌」を作曲したのです。また、現代ではフランス版『ELLE』誌の元編集長による『潜水服は蝶の夢を見る』(Jean-DominiqueBauby, Le scaphandre et le papillon, Robert Laffont,1997.日本語訳:河野万里子訳、講談社、一九九八)という「奇跡の手記」が思い出されます。四十歳代で脳梗塞による難病「ロックトイン症候群」に襲われ、身体的自由を失った著者ジャン=ドミニック・ボービーは、二十万回の瞬きで文字を伝え、人間愛とエスプリに満ちた傑作を綴りました。そのなかで、掲出の一茶句にみるような「雁」ならぬ「蝶々」へ思いを馳せて、著者は身体的自由を超越した「心の自由」を称えました。

 僕は、自分の頭の中を飛んでいく蝶々の羽音が、聞こえるようになった。もちろん非常にかすかな音だから、よく耳を澄ましていなければならないし、集中力もいる。少し強く息をしただけで、もう聞こえなくなってしまうのだ。不思議なことだと思う。聴力自体は少しも良くなっていないのに、この羽音だけは、ますますくっきりと聞こえるようになってきた。

  僕は、蝶々の信頼を、得ているのだろうか。

 この「手記」の出版二日後、ジャン=ドミニック・ボービーは他界しました。しかし彼の本は世界的なベストセラーとなり、二〇〇七年には映画化され、カンヌ映画祭で監督賞を受賞しました。実はその映画で主人公の長女を演じる子役には、パリに住む僕の姪が選ばれました。いつか彼女に、一茶の生涯を語らなければなりませんね。


木の陰や蝶と休むも他生の縁


 文政八年二月(一八二五年三月後半~四月前半)の作(『文政句帖』)。

 一茶は半年前から脳出血による下半身不随と言語障害を患っています。転々と門人の家を駕籠で廻り、湯田中温泉などで療養生活を送っています。早春のある日、老俳人は駕籠かきに誤った指示を出したのか、山路に迷ってしまいます。落葉松と杉の日陰に蝶々を追いかけている、隣村の少女に道案内を頼みます。するとさっと春時雨が通り、皆で老木の下を借りて雨上りを待つことにします。掲出句の前書に「小娘の山路の案内しける、一むら雨のさと降りければ」とあります。「さと降り」とはもちろん「さっと降り」の音便ですが、ここで一茶はさり気なく、六年前にこの世を去った愛娘「さと」の名前を踏まえていたのではないでしょうか……。「さと女が生きていれば、今はちょうどこの小娘と同じぐらい、七、八歳になるのか」と物思いに更けると、少女は驚いて「お爺ちゃん、お爺ちゃんはなんで泣いているの」と、無邪気に問いかけます。一茶は廻らない舌を動かそうとしますが、野獣のようなうなり声しか出ません。すると少女をじっと見つめ、心のなかで言葉を綴ります。「他生の縁、他生の縁さ。蝶々もね、君もね、お爺さんもね、もともと皆同じ魂さ。形が違っても、いつかはまた生まれ変わって、また会えるからね……」。

        *     *

 フランスの生態学者J=M・ペルトは、近著『自然と精神性』(私訳)において、仏教の「縁」と“エコロジー的精神”の類似性を次のように論じています(Jean-MariePELT, Nature et spiritualité, Fayard, 2008, p. 74)。

原始的な信仰によるアニミズムでは無数の神が森羅万象に存在し、一方、一神教では神が万物の中心として存在するとされている。しかし仏教ではそれらとは異なる宗教観がみられる。生命体の全てが輪廻転生で密接に繫がっていて、「縁」こそが肝心であるとされている。この相互関係を重視した世界観は、換言すれば地球を一つの生態と見なしていて、生態学から発展した“エコロジー的精神”に類似しているともいえる。

 一茶晩年の世界観はそんな「縁」を重視した仏教的思想の影響が認められます。それと同時に、世界中の農村文化にみられるアニミズム的な自然敬愛が根底にあり、後に民衆的なヒューマニズムと呼べるような性格も現れ、独自の精神が形成されたのです。やはり、様々な宗教や思想の知恵を合わせたような、一茶晩年の精神こそ、現代の環境問題解決のための示唆を与えてくれるといえるのではないでしょうか。さきほどのペルト氏いわく(同、p.284)、

精神的なエコロジー、いわば“メタ・エコロジー”と呼ばれる、新たな共通の価値観が必要になってきた。そこで、幾つかの宗教や哲学にみられる過去の知恵を取り入れつつ、最近の環境問題に対する意識を昇華させたような複合的な精神の構築が待たれるのである。


けし提てケン嘩の中を通りけり


 文政八年四月(一八二五年五月後半~六月前半)の作(『文政句帖』)。

 「けし」「ケン嘩」「通りけり」の頭韻は、けわしい雰囲気をそのまま、音韻のリズムで見事に伝えています。ひょろひょろとした罌粟の花を手に、恋人に裏切られて世間の物笑いになったピエロが逃げゆくような光景、そんなコメディアデラルテの寸劇が僕の脳裏を過ります。金子兜太氏(『日本の古典22』、河出書房新社、昭和四八年)はこの一茶の代表作について、蕪村の代表作「葱買て枯木の中を帰りけり」の意識的な反転の可能性があると指摘しています。氏いわく、蕪村の「洗練された心理風景に対して、荒い生臭い心理を演出した」とのことです。ところで両句において頭韻の多用が著しいですが、蕪村はカラッとした「カ」の音節を繰り返し、一茶は何となく汚らわしい感じの「ケ」を利用したのも偶然ではないでしょう。掲出句にみる、一茶特有の「生臭い心理」について、故阿部完市氏は次のように述べています(「『けし提て』の句」『一茶の総合研究』、信濃毎日新聞社、一九八八)。

人間の一生という生を、生のまま書き流して行った人、いわば、悔多い心のままの一生を作し終えた「人間」の姿を、私は一茶に思っている。

 宗左近の一茶観も思い出されます(「美しやせうじの穴の天の川」『一茶と句碑』、里文出版、平成一五年)。

一色多い虹。それが、小林一茶の芸術の世界。(中略)普通の虹より、血の色が一色多いのである。それだけ人間臭い虹となった。

 ただ、「人間臭さ」は決してマイナス的な要素ではないと付け足したい。芸術家はまず生の人間ですから。そして一茶のお陰で(民謡や東歌のような口承文学を除けば)初めて日本文学に人間を率直に詠んだ詩歌が生まれたのです。

 (先週、娘凜が無事に生まれました。フランスの戸籍に届けたミドルネームは、一茶の娘と同じ「SATO」にしました。娘よ、いつかあなたもこの文を読むかもしれません。一言だけを伝えるなら、一茶の人生観にも通用する、フランスのルソーの名言がいい。Hommes,soyez humains, c, est votre premierdevoir!「人間よ、人間的であれ。それがあなた達の第一の義務である」)

第七章 エコロジーは次代との縁からはじまる(再婚、最後の子、文政八~十年)







26子なき父となりて


団扇の柄なめるを乳のかはり哉


 文政八年六月(一八二五年七月後半~八月前半)の作(『文政句帖』)。

 回想句です。それも一茶の心底に焼き付いた光景の回想。半年前に栄養失調で亡くなった第四子・金三郎の不幸を思い出し、老俳人は亡子に掲出句を捧げ、次の前書を記しています。「母に遅れたる子[の]哀は」と。金三郎は母親に先立たれた後、不誠実な乳母に預けられたため、常に空腹でした。ひ弱な赤子は何度も父親の団扇の柄を舐めようとしたのでしょう。一茶は愛息子に向かって、「舐めるなよ、金三郎! 父っちゃんの団扇からぱいぱいは出ないぞ…」とささやき、涙を呑みながら吾子を抱く光景が目に浮かびます。一茶はついに高名な地方俳人として“扇子の風だけで”食っていけるような地位に至りましたが、男一人ではどうしても乳幼児を養うことはできません。この上なくビビッドな境涯句というべきでしょう。

        *     *

 実は江戸時代の庶民の間で、いわゆる“子連れの男やもめ”の切ない境遇がよく話題にされていたようです。たとえば、川柳に「南無女房(「亡き妻よ」の意)乳を飲ませに化けて来い」(誹風柳多留拾遺・九)という悲喜劇的な叫び声が伝わっています。現代の「子連れ狼」の物語にも同じ感性が受け継がれているといえましょう。大藤修氏(「『子宝』意識の成立」『近世村人のライフサイクル』、山川出版社、二〇〇三)が述べるように、江戸時代からは、子供を「少なく産んで大切に育てるという産育形態が基本」になりました。しかし一方では、平均寿命がまだ三十歳台に留まっていたため、子連れの男やもめ・女やもめが多く見られ、今でいう「父子家庭」の哀れさに人々は同情し、“母性愛に変わる父性愛”が文学の題材にもなったわけです。西洋でも同じ十九世紀頃、心理学者は育児における父性愛の大切さを説き、同時にフランスの小説家・バルザックは代表作『ゴリオ爺さん』のなかで父性愛という本能の深さを描いています。次の名セリフで、二女の父・ゴリオはすべての父親の代弁者となり、若者ラスティニャックに向けて、いわゆる近代的な父性愛を称えます。

わしらは自分自身の幸福以上に、子供たちの幸福から幸せを感じるものですな。それをうまく説明することはできませんが。何かこう心のなかがくつろいできて、身体じゅういい気持になってくるとでも言いますか。要するに、わしは三人分生きておるのですな。ひとつ奇妙なことをお話ししますかな? では、申上げるが、わしは父親になったとき、神さまというのがわかりましてな。神さまはどこにでも存在していらっしゃる。なにしろ森羅万象が神さまから出たものなのじゃから。ラスティニャックさん、わしも娘たちにたいしては同じなのですよ。ただわしは、神さまがこの世界を愛していらっしゃる以上に、わしの娘たちを愛しております。なぜって、世界は神さまほど美しくはないが、わしの娘たちはわし以上に美しいんですからなあ。あの子たちがわしの魂にしっかとつながっておるものじゃ。(平岡篤頼訳『ゴリオ爺さん』、新潮文庫、昭和四十七年、一七四頁)

 自分以上に他人のことが大切に思えるという“他愛の極致”、その心境は母親になった人にしか分からないとよく聞きます。しかし、多くの父親の胸にも同じような無償の愛が宿っている筈です。また、次世代のことを心から思う人なら、だれしも自分の命に代えて子供達の命を救いたいと感じるのではないでしょうか。環境問題を解決しようという意欲も所詮、ここからわいてくるものでしょう。“自分と次代との縁”の再認識からすべてが始まるでしょう。


小さい子も内から来るや田植飯


 文政八年六月(一八二五年七月後半~八月前半)の作(『文政句帖』)。

 一茶の家から善光寺平の方へと坂を降れば、北信五岳に臨む小谷があります。初夏のころ、早苗の間に黒姫山の稜線が清水に映り、朝夕早乙女の唄が響き合います。一茶の句日記では掲出句の直前、同じ景を詠んだ句「負ふた子も拍子を泣や田植唄」が記されています。村の赤子たちはおんぶをされながら田植唄のリズムに合わせて最初の喃語を唱え、民謡の七七七五調から母語を覚えていたということでしょうね。歩けるぐらいの子供たちは、掲出句に描かれている通り、朝は家で待機し、食事の時間となれば田圃まで駆けつけて大人たちと一緒に「田植飯」を食べることになっていました。なるべく早く田植えを終わらせるために、家で食べる時間が取れません。皆で外で食べた方が合理的で、なおかつ楽しいのです。妻子を失ったばかりの一茶にとって、農村社会の共同体、「村の絆」がいつになく懐かしく感じられたのでしょう。事実、このころから犬猿の仲だった義理の弟とも普通に付き合えるようになります。弟・仙六はもはや五十三歳、結婚していますが子宝に恵まれず、一茶と一緒に朝食を取ったりして、胸中を語り合えるようになったようです(文政八年七月の日記に二度「隣旦飯」の記載がある)。一茶は俳諧師の仕事のため家を空けることが多く、隣に住む弟に頼みごともあったのかもしれません。とにかく過去は過去のこととなり、同じく父親になれなかった男同士、兄弟はお互いの傷を理解し合えるようになっていたのでしょう。

        *     *

 一般的に共同生活は一人当たりの食費、光熱費などを抑えることに繫がり、一人住まいよりも環境に優しいのは一目瞭然です。江戸時代の村人たちもやはり、無駄を避けるために極力皆で食べたり、皆で働いたり、同室で寝たりしていたのです。ひいては祭りや農作業の時は皆で唄ったり、夜となれば囲炉裏を囲んで連句や前句付を巻いたり、語りを愉しんだりしていました。しかもそんな共同生活にはもう一つの利点があります。それは人々のコミュニケーション能力が高められるということです。健康な精神の条件として「生のコミュニケーション能力」が最も肝心であると、フランスの精神科医B・シリュルニック氏が述べています。氏によれば、擬似的なコミュニケーションを可能にするIT技術の普及によって、次第に生活から生の人間が抹消されることが多く、現代の最大の精神病が広まってきていると指摘しています(BorisCyrulnik, Autobiographie d,un épouvantail, Odile Jacob, 2008, p.120 私訳)。

IT技術が進歩するに連れて使用者の感情が麻痺させられ、感情移入が困難となり、ナルシス的傾向が強まる。この精神状態が生み出す孤独感は、現代の西洋人にとって最も悪性な病になっていると認めざるを得ない。東洋でも所謂テクノ文化が普及してから同じくナルシス的・自己中心的な習癖の症状が現れている。

 この時代にあって、一茶の農村詠は我々に“生の人間の絆”を再認識させてくれるといえましょう。生態学は生命体の関係性を対象にする学問だとすれば、それを支えるべく「エコロジー的人生観」はやはり、人間関係を重視する生き方から成り立つものといえるのではないでしょうか。


朝顔とおつゝかつゝや開帳がね


 文政八年七月二十三日(一八二五年九月五日)の作か(『文政句帖』)。上段に「善光寺」とある。

 数え年で七年に一度、日本の最も古い秘仏とされる「善光寺如来」の前立ち本尊が公開されます。現在は信州の桜が咲き誇る四月に行われますが、この文政八年は朝顔が咲く初秋のご開帳となったようです。数日間、全国から参拝者が集い、日本有数の門前町はお朝事から賑わっています。天台宗の宿坊、浄土宗の宿坊、仲見世などが所狭しと並ぶ元善町の角ごとに、お花が咲き、立ち話が盛り上がります。掲出句の「おつゝかつゝ」とは、方言で「同時に」という意味です。つまり、朝一番、ご上人の到来を告げる鉦と同時に、(花にもそれが聞こえたかのように)街角の朝顔が次々と開くという朗らかな句意になっています。一茶の、善光寺に対する親近感が伝わります。なにしろ善光寺信仰は、日本でも最も古くから伝わる仏教信仰の一つですが、庶民的かつ開放的なのです。古代から女性も内陣に入ることが許され、複数の宗派で運営されてきた唯一の「無宗派のお寺」なのです。中央から入って来た仏教とは一味違います。国家の宗教にあらず、山奥の庶民による、庶民のための信仰ともいえるでしょう。二〇〇八年四月、チベットの民衆に対する抑圧が問題になった時、善光寺事務局は北京オリンピックの聖火リレー通過を断りました。やはり、善光寺のお坊さん達はチベットやビルマの僧侶達と同じく、庶民のことを第一に考えているのだ、と感心した覚えがあります。一茶が生きていれば、きっと「善光寺さん」を誇りに思ったのではないでしょうか。




27衣食住から始めよう


猫のとり残しや人のくふ螽


 文政八年九月(一八二五年十月後半~十一月前半)の作(『文政句帖』)。

 今も信州ではイナゴの佃煮などが頻繁に食卓に上がります。たんぱく質とカルシウムが豊富で、食感がよく、食べ始めると癖になります。イナゴの他、ザザムシ、蜂の子、蚕などの昆虫を食する習慣が昔からあります。なかでもイナゴが最も捕まえづらい虫でしょう。一茶が述べているように、“いなご狩り”となると人間より猫の方が運動神経が優れているので、猫が先に食べ、人間がその食べ残しで我慢するわけです。つまり昆虫摂食に関しては、人間よりも猫の方が食物連鎖の上位に立つということになります。近世村人の食生活をみると、やはり人間が食物連鎖のなかで謙虚な立場を守っていたといえるのではないでしょうか。

        *     *

 現在砂漠化が進むアフリカ諸国では、食用昆虫というたんぱく質源の卓抜さが見直されています。牛肉など、エネルギー効率の悪い家畜肉をわざわざ輸入するのではなく、旱魃で増えてきたバッタ科の昆虫を摂食した方が経済的で、環境にも体にもよいと注目されています。事実、いわゆる“先進国”で牛肉を一キロ生産するには、少なくとも八キロの穀類(トウモロコシを中心とした飼料)が使われているそうです。そのトウモロコシを育てるには、膨大な水量とエネルギーがかかり、飼料と肉そのものの運送にも相当なエネルギーが費やされています。では、(昆虫を除けば)エネルギー効率のよい食肉とは? まずは豚肉があり、さらに鶏肉が優れているそうです。それでも鶏肉一キロを生産するには穀類三キロもかかるといいます。そこで、食物連鎖のなかでさらに一段下がってみると、植物性たんぱく質を食べるのが最も地球環境の負担にならないということが判明します。大豆、キノコならほとんどエネルギーのかからないたんぱく質となるのです。そのうえ、植物を中心とした食生活が健康によいのは言うまでもありません。

 では、「魚介類」主流の食生活はいかがでしょうか。天然のものであれ養殖のものであれ、近くで獲れたものなら、エネルギー効率が非常によいといえます。ただ、天然物に関しては世界人口の増加に伴い、漁獲資源の減少が問題になります。特に食物連鎖の上位にある大きな海洋生物(マグロ、カジキ、鮫など)の資源再生が困難といわれます。ここもやはり、人間が食物連鎖の下に位置する小さな生物を優先的に食べた方が環境に優しいということになります。僕と同じ外国生まれの俳人で海洋学者のドゥーグル・J・リンズィー氏は句集『出航』(文學の森、平成二十年)のあとがきのなかで次のように述べています。

我々俳人は絶滅の危機に直面している南マグロやフカヒレの材料となる鮫などを食べないようにする直接的な運動とは別に、俳句を通じて海に関する知識や関心を高めることもできるのであろう。

 そして、海ならぬ“山の食文化”に関しては、一茶の作品を通じて、日本の古き良き生活習慣を再発見することもできるでしょう。


貝殻で家根ふく茶屋や梅の花


 文政八年十一月上旬(一八二五年十二月中旬)の作(『文政句帖』)。

 妻子を失った一茶はここ二年、門人宅を転々としながら善光寺平と湯田中温泉郷の間の寒村をうろつき、少しずつ失語症から立ち直ります。越後の門人宅まで足を運んだという形跡がないので、掲出句が海辺の吟とは思えません。きっと、山里にも小洒落た茶屋があり、女将が貝殻で屋根を飾っていたのでしょう。海の物を屋根に飾れば「水の神」が宿り、火災避け、厄除けの御利益があるというアニミズム的信仰は世界中でみられます。とにかく鄙びた花見茶屋には立派な瓦屋根が不要です。近くの海から運んで来た貝殻を瓦代りに使えば華やかに見え、断熱材としても役に立ちます。春の到来を待ちわびる一茶は、庶民のささやかな洒落心と知恵に感心したのでしょう。

 先日、インターネットで断熱住宅や無暖房住宅(パッシブハウスpassivehouse)の最新情報を調べていたら、食用ホタテの貝殻を再利用した断熱材が注目されているのを知りました(http://www.ecopro.jp/eco/shell.htmlを参照)。ここでも、江戸時代の村人が未来のライフスタイルを先取りしていましたね。

        *     *

 先進国では、一般市民の二酸化炭素排出の原因を分析すると、住宅(冷暖房)が約四分の一、交通が約四分の一、そして食事も約四分の一という明解な割合になっているのです(残りの四分の一はその他の物質的消費などが原因)。さきほど取り上げた「猫のとり残しや人のくふ螽」という句を通して、食と環境について書いてみました。外国産の牛肉より国産の鶏肉や小さな魚など、または季節外れの果物より地元の野菜を選ぶという様々な工夫が比較的容易に考えられます。交通に関しては、電車、自転車、歩きを優先すれば地球に与える自己のインパクトを簡単に減らすことができるでしょう。しかし、住宅の問題となると、この不況の時世にあって、「断熱住宅を早く購入しなさい」と、一般庶民には求められませんね。そんな時、公共の「断熱住宅助成金」を増やせば、国のエネルギー効率を高めると同時に若い家族や新産業を助け、日本のエコ・ビジネスを促進するチャンスが潜んでいるのではないでしょうか。

 (実は僕も、八か月になる娘がいて、そろそろ子供部屋が欲しくなり、マイホームを夢見て様々な建設会社を訪れてみました。断熱住宅の一軒家を建てようと考えていましたが、資金不足のため断念せざるを得ませんでした。結局、長野駅に近い、善光寺界隈の中古マンションを買うことにし、先月、借りていた古民家を引き払いました。庭がなくなるのが寂しかったのですが、娘のために植えてあった梅の木を大きな鉢に入れ、マンションまで運んで来ました。お陰様でベランダでも無数の梅花が開きました。そしてベランダの見晴らしが良く、古い小学校のグラウンドに並ぶ大木を眺めることもできます。ここでもきっと、娘に「木を愛する心」を伝えることができそうです。)


かぶら菜や一霜ヅゝに味のつく


 文政八年十一月二十九日(一八二六年一月七日)の作か(『文政句帖』)。

 一年で最も寒い時期です。句日記をみると、この句が記載されるまでの六日間、「雪」「吹雪」「吹雪」「吹雪」「雪」「小雪 寒也」と続きます。一茶はこのころ、ほとんどの句で北信濃の冬の辛さを訴えています。「霜がれや貧乏村のばか長き」「雪の日や堂にぎつしり鳩雀」などがあり、掲出句ではほんのり前向きな気持がみえてきます。「そうだ、寒いからこそ土の中の蕪が甘くなるのだ。蕪だって、俺みたいにじっとして寒さに耐えている。しかもある日突然、人間に引っ張られて食われてしまう……蕪は偉いなぁ」という一茶の独り言が聞こえるようです。

 ところで、この連載で最初に取り上げた作品を思い出しましょう。十三年前の同じ時期に、一茶は信州へ帰郷する道中、峠の寒風に晒されながら俳諧歌を吐露しました。「ねがはくば松に生てぬく〳〵とかぶつて寝たき峰の白雲」。その時、俗塵を離れた松の梢に憧れ、「木を愛する心」を切実に詠いました。今度はさらに、木に対する感情移入を超えて、老俳人はいわゆる「蕪を称える心」に至ったのではないでしょうか。

 風雨、降雪に耐えて、ゆっくりと成長を続ける“植物たちの生き方”に、人間は感銘を受けざるを得ません。言葉遊びでいえば、「松は待つことを知っている」。一方われわれ現代人は「待つこと」の大切さを忘れ、焦ってばかりの人生を送っています。たとえば、蕪がすぐに大きく育って欲しい、手間もなく安く作りたいという“焦り”から、集約農業で瘦せた土地に化学肥料を蒔き散らし、結局毎日味のない無機野菜を食べることになります。そして人間の健康が損なわれ、土の腐食質が減り、大地が瘦せてゆく一方です。われわれ人間は植物、そして土からもっと辛抱強い生き方を学んだ方がよいでしょう。なにしろ、ラテン語のHUMANUS(人間的)の語源はHUMUS(腐葉土、土)と同じなのです。「人間」はそもそも、腐った葉っぱで再生する土のように、休む時は休み、自然のリズムを守って生きるべし、という深意がその語源にあるでしょう。「一霜ヅゝ」甘くなる蕪を愛する一茶のように、いわゆるスローライフに帰るべし。




28明るく謙虚に生きる


筆の先ちよこ〳〵なめる小てふ哉


 文政九年春(一八二六年晩春)の作か(『文政句帖』)。

 硯に向かいひぐらし門人の句を添削していると、いつの間にか集中力が切れ、現実の世界に戻り、身辺の小さな出来事にいたく感動することがあります。石寒太氏によれば、加藤楸邨の名句「百代の過客しんがりに猫の子も」も、そんな時に生まれたといいます。晩年の楸邨はある日、ひたむきに句作について考察しながら墨を摺っていたら、颯爽と猫が硯の側を通り、その姿が芭蕉や李白のような崇高な旅人に見えたとのこと。つまり老俳人は突然、“弱き存在の愛すべき姿”に立ち止まり、文芸以前の大切なもの、「命の尊さ」、そしてその命を愛でる「人情」の大切さを会得した瞬間です。芭蕉の言葉でいえば「俳諧はなくてもありぬべし。ただ世情に和せず、人情に達せざる人は、是を無風雅第一の人といふべし」(『続五論』)。

 一茶も掲出句で、硯に置いた筆を嘗めている胡蝶を発見し、俳諧の根源が命を愛でる心にあると悟ったのではないでしょうか。フランスの現代小説家フィリップ・フォレスト氏は、一茶の評伝(PhilippeFOREST, SARINAGARA, Gallimard,2004.『さりながら』、澤田直訳、白水社、二〇〇八、六六頁)のなかで、次のように書いています。

一茶が見てとったように、宇宙が表現しているのは、そこに存在しているという恩寵のみである。地に這う蟻、わけもなく飛ぶ蝶や蜻蛉、たちの大きな鳴き声、もっとも弱き存在たちの愛すべき姿、野に咲く花たちが野趣あふれた色にそまり花開く、そう言った事が言祝ぐのに十分だった。

    斯う活て 居るも不思議ぞ 花の陰

生まれてきたということのほかに恩寵などないのだ。

 本連載の十三回目、「露の世ハ露の世ながらさりながら」の鑑賞の際、すでにこの小説家にふれました。フィリップ・フォレスト氏は数年前六歳になる娘を失い、『永遠の子ども』というベストセラーを発表し、その後日本の小林一茶に対して絶えざる関心を持つようになったといいます。彼は、亡くなった娘の存在の大きさは、生きた年数にあらず、単に「生まれてくれたという恩寵」にあるというのです。一茶にとっても、愛娘「さと」は一歳半でこの世を去ったとはいえ、内心では“永生の子”だったに違いありません。そして、掲出句で一茶が見た「筆先の胡蝶」とは、まさにさと自身の魂の面影だったのではないでしょうか。

 (先週、フランスから兄が長野まで来てくれました。九か月前に生まれた娘に会うための旅でした。そこで、かつて六歳の息子を失った兄と共に、一茶の墓を訪れたいと思いました。娘を連れて、柏原の小丸山を登り、一茶の墓に辿り着きました。一茶の墓碑の奥、「幼の墓」と刻まれた古碑が建っています。さとはおそらくその下で眠っています。その石の前で、娘に梅の小枝を持たせました。彼女の誕生を記念して植えた梅の木から摘んであった花です。娘は真剣な表情になり、両手で丁寧にお花を手向けました。すると、小さな林の奥から清らかな陽光が差し込みました。その時、娘は兄の方を振り向き、「長生きをするよ」と誓うような、力強い笑顔を見せてくれました。)


先祖代々と貧乏はだか哉


 文政九年夏(一八二六年晩夏)の作か(『文政九・十年句帖写』)。

 上五中七の句跨りが絶妙で、その散文的な韻律によってあるがままの庶民の意地が伝わります。一茶は過去に、武士が「家は先祖代々」どうのこうのと自慢するような話を何度も聞かされ、むくれて押し黙ることがあったのでしょう。自分なんか百代遡っても先祖全員が百姓、半身裸で夏の農作業に励んできただけだ、と言い返したい気持が分かりますね。フォレスト氏がいうように(同書、七三頁)、

一茶は自ら一歩前に出て、自分の名で表現する。彼が発するのは万人に向けられた共感の言葉だが、自分に固有のものでもある。その言葉はいう。この世で人は愛し、苦しみ、死ぬ、と。

 実はこのころ、六十四歳になる一茶は再び一人の女性を愛するようになります。相手は三十二歳で、宮下ヤヲといいます。柏原の旅館でお手伝いをやっていて、本陣の三男坊・中村倉次郎と関係をもったあげく子を宿し、二歳になる男の子を一人で育てている、いわゆるシングル・マザーなのです。幕府役人に騙された貧しい女性を哀れに思ったのか、その連れ子・倉吉を養子に迎えたかったのか、とにかく一茶はこの夏、ヤヲの家族に結納金を支払い、倉吉を善吉と改名させ、妻子を引き取ります。最初の妻・菊に「父っちゃん」と呼ばれていた彼は、三番目の妻・ヤヲからは「爺ちゃん」と親しまれたようです。しかし気取った侍の娘だった二番目の妻とは異なり、ヤヲは百姓の生活を嫌がることはありませんでした。彼女は一茶と同様、「先祖代々貧乏」で、謙虚な人間であり、「爺ちゃん」に対していつも思いやりを示します。この秋、ヤヲと共についに家族を築いた一茶は、世を去るまで僅か一年しか残っていません。ささやかな幸せをやっと手に入れたのでした。

        *     *

 一茶のように、自己の金銭的な貧しさを恥ずかしがらず、むしろそれを自慢に思うという発想は、今日の経済危機を乗り越えるための示唆を与えてくれるともいえます。二〇〇八、九年の大不況は、ある意味でわれわれにそんな価値観の変化の必要性を教えてくれたような気がします。たとえば僕の場合、務めていたラジオ番組のコーナーが打ち切られ、地方テレビのコメンテーターの仕事もなくなり、以前から教えていた大学では講義の一コマがカットされました。一方、そのお陰で娘の育児に深く関わることができます。固定勤務は週に一日だけの大学授業となり、妻が毎日働いていても、保育園に頼る必要がほとんどなくなりました。ほぼ毎日、朝から晩まで僕が娘の面倒をみることができます。たしかに家族の収入は減りましたが、保育園の費用も少なくなりました。その二つの減額によって日本のGNPが減ったことになるでしょうが、娘と僕の“幸せが減った”とは思えません。ねがわくは、僕の育児参加が娘の心を豊かにし、いつか日本社会全体の“人間的財産”になるといいですね。日本のGNPに対する貢献でいえば、僕らの家族は貧乏になりました。しかしこの場合、貧乏だから幸せといえるのではないでしょうか。


やけ土のほかり〳〵や蚤さはぐ


 文政十年閏六月十五日(一八二七年八月七日)の作(上高井郡高山村紫の門人・久保田春耕に宛てた書簡より)。

 この吟のちょうど二週間前、柏原に大火が起こり、一茶の住居を含む八十三戸が焼失します。妻のヤヲと連れ子の善吉と共に、老俳人は焼け残った庭の土蔵に移ることにし、そこで仮住まいを始めます。今も現存するこの土蔵は、一見に値します。十畳ほどのひと間、囲炉裏の向かいには掌ほどの小さな窓一つしかありません。最近、三人家族が座っていたはずの土の床を掘ってみたところ、魚の骨など、食べ物の跡が出て来たといいます。その囲炉裏に座っていると、開けっ放しの玄関が目前にあり、焼け跡を一望することができます。焼け土は不気味なものです。いつまでも火花が甦りそうな匂いと温かさが残り、夏の昼の土いきれが加わると、まるで地獄を予感したような気持にもなります。それでも、人間の不幸を気にせず、蚤たちは暑さを楽しんで繁殖し続けます。小さな命こそ、不滅であります。一茶は、人間の不幸に“慣れ過ぎていた”のか、この瞬間、落胆も個人的な希望も忘れ、ただ逞しく生き続ける蚤たちを眺め、その生命力を嬉しく思ったのです。加藤楸邨(『一茶秀句』、三六一頁)が述べたように、

半生の漂泊の果てに肉身との血の滲むような相剋を経て、ようやくにして手に入れた「終の栖」が、一日にして烏有に帰したのであるから、落胆は決して小さくなかったと想像するのが自然だ。ところが、この「ほかりほかりや」は、奇妙に明るいものを漂わせている。どうかすると、この境涯をたのしんでいるのではないかと感ぜられるほどである。これは、一茶の心に生まれていた、「あなたまかせ」の諦念の上にほのぼのとひらけてきた静かな光だったのではないかと思う。

 所詮、土地を持つのも、家を持つのも、自惚れた人間の空想でしかありません。災害に遭えば、人間は一瞬にして全てを自然に返すことになります。最終的には、所有権など人間にはなく、自然にしかありません。一茶はかつて、愛娘の死後、「ともかくもあなた任せのとしの暮」という句を書き記し、「あなた」、すなわち自分を含む大自然の摂理に向かって祈りを捧げました。今は、その祈りをさらに超えて、ただ一日一日自然に身を任せ、蚤のように明るく謙虚に生きるしかないと悟ったのです。




29最後の最後まで諦めない


勿体なや昼寝して聞田植唄


 文政十年初夏(一八二七年夏)の作か(『文政九・十年句帖写』)。

 一茶が三十歳代のころ俳諧行脚で関西、四国などを訪れていた時の句日記に『西国紀行』という俳文集があり、その余白の書き込みに同じ句が記載されています。なぜか、文政十年の夏、すなわち三十年後一茶はこの句を思い出し、最後の句日記に再録したのです。彼はこう思ったのではないでしょうか。「これはいい辞世になるな。俺なんか、風雅を売り物にして一生を送ってきたけど、もう少し百姓の生活に、その苦労に目を向け、耳を傾ければよかった……。この体たらくで昼寝を楽しんでいる俺は、結局早乙女の歌声ほど美しい歌を詠んだことはない。ああ、俺の人生は勿体無かったな」と。フランスのヴェルレーヌの獄中吟に、よく似たような哀吟があります。

空青し 空静かなり 屋根の向かう

 屋根の向かうの 木は葉をゆすり…

空が見え 鐘がかすかに 聞こえゐる…

 あそこ、木が見え 木に鳥の悲鳴!

ああ、神よ、 みな生きてゐる あそこでは…

 あそこ、しづかな 町のをとかな

こんな僕、 泣いてばかりの 青春か?

 こんな僕、どう したといふのか?

PaulVerlaine, Le ciel est, par-dessus le toit.マブソン訳)

 ただし、一茶の句には、日本語特有の表現「勿体無い」が深い意味を与え、今の時代にとって大切なメッセージが含まれているような気がします……。

        *     *

 ケニア出身の女性環境保護活動家ワンガリ・マータイ氏は、二〇〇四年に環境分野の活動で史上初めてノーベル平和賞を受賞し、その後京都議定書関連事業で来日した際、「もったいない」という日本語の単語を知って感銘を受けたといいます。つまり、「もったいない」の意味には、英語でいうIt,sawasteのみならず、「神仏・貴人などに対して不都合である。不届きである」(『広辞苑』)というニュアンスも含まれています。言い換えれば、物を無駄にするのは神様に対しても不敬となる、という深意がこの日本語にあるわけです。マータイ氏はこの単語との出会い以降、国連などを舞台にしていわゆる「MOTTAINAI CAMPAIGN」を展開し続けています。その心は、従来の3R(Reduce,Recycle,Reuse)に加えて、Respect(人間と自然に対する敬愛)を重視するような“ヒューマニスト・エコロジー”活動といえます。そして彼女の精神の源はそもそも、農民であった両親から受け継いだものといいます。いつかは、この一茶伝を英訳、または仏訳してマータイ氏へお送りしたいものですね。


花の影寝まじ未来が恐しき


 文政十年初夏(一八二七年夏)の作か(『文政九・十年句帖写』)。

 これぞ一茶の辞世の句といわれてきた作品です。たしかに、西行の辞世といわれている名歌「ねがはくは花のしたにて春死なむ……」を踏まえているので、自己の死を予感した瞬間に詠まれたと思われます。そうはいえ、西行のように花の下にて穏やかな心地で息を引き取る余裕はないと自白したところが一茶らしい。前書に「耕ずして喰ひ、織ずして着る体たらく、今まで罰のあたらぬもふしぎ也」とあり、さきほどの「勿体なや」の句とほぼ同じ心境で詠まれたことが分かります。「自耕自織」のできる百姓に対する敬愛の気持、ゆえに風流人としての罪悪感、その二つの念が一茶の生涯を締め括ったといえるかもしれません。

 ところで、本連載初回で取り上げた俳諧歌を思い出しましょう。「ねがはくば松に生てぬく〳〵とかぶつて寝たき峰の白雲」(文化九年十一月十九日の句日記)。その作品においても一茶は西行の辞世を踏まえていました。人間ではなく木に生まれたかったのだ、という奇想が印象的です。その時、五十歳の一茶は信州へ帰郷する道中でした。そして十五年後、老俳人は再び西行の辞世を踏まえて一句を遺し、同じ十一月十九日に故郷で他界します……。

 その十五年間、色々ありました。三度の結婚、子供四人の死。一茶こと小林弥太郎という名の老木は無数の花を咲かせ、四回も実を結びましたが、みな熟れずして落果してしまいました。二歳になる養子・善吉君だけを後世に残せるのかと、翁は人生の虚しさを痛感した瞬間でしょう。

 本連載第二回で書いたように、僕からみれば、一茶の二万句はいわゆる“精子のようなもの”でした。彼は、湧き出る句々をもって命を伝えようとしました。が、最終的には言の葉が風と共に去りゆき、俳諧は「命を残す」という本能を満たしてくれたわけではありません。最後は、俳人を忘れ普通の男に戻り、焼け跡の桜の下でこう呟いたのではないでしょうか。「仏がさとを返してくれたら、焼け残った発句も書物も持ち物もすべてを炎に投げてもいい。俺も死んでもいい。だけど、このままでは死に切れない」と。「命を残す」という本能は、一茶のような“荒凡夫”にも、皇室の姫にも、野良猫にも、どんな過去を負う生き物にも同じ様にあります。理屈では言い表せないこの本能との最後の葛藤を、一茶は掲出句で描き切りました。命を残したいという本能と、死を恐れるという本能、その二つの他、深遠な文学的題材はあるでしょうか。


かまふなよやれかまふなよ子もち蚤


 文政十年初夏(一八二七年夏)の作か(『文政九・十年句帖写』)。

 火事の後、蚤が気持良さそうに騒ぎ、繁殖し続けます。ところで、「子もち蚤」を見分けるなんて、小さな命に対する眼差がよほど鋭くないとこんな句は生まれませんね。実はこの句、一茶の妻・ヤヲに向けた応援歌でもあると思われます。そう、ヤヲはこの夏、ついに一茶の子を宿したのです。現代医学の計算法によれば、排卵日が旧暦で七月十五日ごろと推定されます。大火の一か月半後、いわゆる「死の恐怖」がまだ鮮烈に心に焼き付いていたころ、二人は愛し合いました。小説『一茶』の最後の一ページで、藤沢周平は次のように「最後の情事」を描いています。

 一茶は寝返りを打って、やをに身体を寄せると、それまで静かに寝息を立てていたやをが、眼をさましたらしく「寒いかね、じいちゃん」と言った。そしてかき抱くように一茶の背に手をまわすと、子供にするように、ひたひた背を叩いた。そのまま、やをはまた眠りに落ちて行くようだった。

 あたたかい肌だった。一茶はやをの腿の間に、いつも冷えている不自由なほうの足を突っこんだ。やをは拒まなかった。そうしているうちに、久しぶりに一茶は股間になつかしい力がみなぎってくるのを感じた。

 「じいちゃんな、身体にさわるわさ」

 一茶の動きに気づいたやをが、今度ははっきり目ざめた声でそう言ったが、やがてやをの口から呻き声が洩れた。前のようにすれば、身体にはさわらない、と一茶はせきたてた。やをは黙って身体を起こすと、一茶の上に身体を重ねた。無言のときが流れて、闇の中で一茶が、極楽じゃと呟いた声が聞こえた。

 「やを。わしの子を生め」

 一茶は回らない舌でそう言った。そして最後の命をしぼりこむように、小さく身ぶるいした。

 次の冬、ヤヲが妊娠十九週目に入るころ、仮住まいの土蔵で一茶はまた中風の発作に襲われ、凍えながら他界します。しかし彼の心は、これから生まれるべき吾子への愛情で燃えていたに違いありません。

 文政十年十一月十九日、西暦一八二八年一月五日永眠、享年六十五。様々な歴史の本で調べても、この日は世界のどの国も特別な出来事が起きていないようです。一茶こと小林弥太郎という、世界史上最大の“百姓詩人”の死以外は、何も起きていません。

 歴史より大事なことがあります。次の四月に、女の子が生まれたということ。命名は「さと」ならぬ「やた」とされました。もちろんヤヲが「弥太郎」に因んで選んだのでしょう。そしてそのやたこそが生き残りました。一茶の死後、ヤヲは私生児・倉吉を本陣に返し、その後十三年間、懸命に一茶の娘を一人で育てました(小林計一郎『一茶――その生涯と文学』、信濃毎日新聞社、平成十四年、一七三頁参照)。遺児・やたは四十六歳(明治六年)まで生き、四人の子供に恵まれました。

 今も、長野県信濃町を訪れると、一茶の子孫といわれる方々に時々出会えます。多くの方は、優しそうな垂れ目をして、ぽっちゃりとした顔立ちです。一茶のように。

 一茶さん、最後の最後まで諦めないで良かったですね。




30一本の木となって


降る雪を払ふ気もなきかゝし哉


 文政十年冬(一八二七~一八二八年冬)の作(『文政九・十年句帖写』)。

 僕にとって、これが一茶の真の辞世句です。この「かゝし」は、秋が過ぎて、冬のさなかで役に立たなくなった人形のように、永遠に残る一茶の姿なのです。彼の最後の句日記『文政九・十年句帖』の最後の頁にあり、しかしなぜか忘れられたままのこの句。僕はフランスから信州まで来て、一茶没後百八十年にこの評伝を執筆し、たまたまこの句と出会い、この句を忘却から救うことができました。掲出句のように、今後新たな一茶が再発見されてゆくでしょう。僕はそう信じています。

 仮住まいの土蔵に籠り、小さな窓から吹雪を仰ぎながら、老俳人はおそらく十五年前の吹雪を思い出しました。その冬、永住帰郷を決意し、江戸から北信濃まで歩き、ついに実家に辿り着いたころ、真夜中の吹雪でした。突然戸を叩いても義母と義弟に歓迎されないことを予感し、そのままもう少し先にある村、亡き母の親戚の家まで歩き続けました。相続交渉で定められた通り、いずれはこの実家の間取りを半分に分けて、自分もここで初めて我が家を構えることができるのだと、胸を張る気持もあったのでしょう。その晩の吟、「これがまあ死所かよ雪五尺」を手紙に書き留め、さっそく江戸の俳友・夏目成美へ送ってみました。すると成美の返事では「これがまあつひの栖か雪五尺」の方が佳いという文が返って来ました。文末には成美の「わる口」が一言ありました。十五年後の今も、一茶が忘れられないような言葉です。「雪の中でお念仏でもいつてゐるがいい」という嫌味。いったい、この雪国での生活の大変さを分かってくれない高名な俳人は、本当に友人だったのか、と疑いました。成美殿、今やまさに雪の中で念仏を唱えながら季節外れの案山子となって死を待っております……あの世でまだこの一茶を見下していますか?

 それから一年後の冬、別の雪の吟「むまさうな雪がふうはりふはり哉」という奇句を送ってみて、成美評を仰ぎました。今度はそれほど激しい情を吐露したものではなく、おそらく都会人好みの優雅な雪景色と思いましたが。回答は厳しかった。「惟然坊が洒落におち入らんことおそるゝ也」、すなわち若干安易な言葉遣いで知られた芭蕉の弟子・広瀬惟然のように、「ふうはりふはり」と言葉で遊ぶな、という苦言でした。たしかに一茶は惟然の軽やかな口語調を好んでいました。そういえば掲出の「かゝし」の句は、惟然の名句、そして惟然について伝えられているエピソードをさりげなく踏まえていたのです。堀切実氏(『芭蕉の門人』、岩波新書、一九九一)が述べたように、

惟然にはいろいろと奇矯の振舞いがあったようだ。これは『近世畸人伝』や『惟然坊句集』に伝えられる逸話で、根拠のあるものではないが、あるとき名古屋の街で、惟然は偶然成人した自分の娘に出会ったが、乞食姿の父を見て驚く娘に「両袖にたゞ何となく時雨かな」と言い捨ててそのまま立ち去ってしまったという。その後また、娘は父の居所をつきとめて京まで会いに来たが、惟然は自分の旅姿を画いた上に「おもたさの雪はらへどもはらへども」と書き添えて与えただけで追い返してしまったという。

 一茶は、そんな雪のおもたさを、つまり人間の煩悩を払おうとはしません。むしろ案山子となって雪と一つになる。惟然の句を踏まえながら、彼はこう思ったに違いありません。俺だったら、娘さとと再会ができるなら、どんな吹雪に耐えてもよい、と。実際この直後、一茶は吹雪に埋もれて他界します。純白の案山子となって、浄土で娘と再会します。ちょうど十五年前の同じ十一月十九日、道中で詠んだ俳諧歌(本連載第一回目を参照)が予言のごとく現実となりました。「ねがはくば松に生てぬく〳〵とかぶつて寝たき峰の白雲」。その通り、小林一茶は一本の木と化しました。吹雪で五体を失った案山子。田圃に根差し、雪雲を被った一本の木。

 先日、かつて六歳の息子を失った兄が来日しました。一茶の墓前で彼から聞きました。「我が子に先立たれるという苦しみを敢えて言葉で表すのであれば、こういうことでしょう。常に、片腕を捥ぎ取られた後の痛みを覚えているようだ」と。四人の子に先立たれた一茶は、両腕両脚を捥ぎ取られていたということになります。そんな裸木のような案山子に化したからこそ、一茶の最後の姿はいつまでも僕らに向かって大切なことを語り続けているのです。それは、人間が苦しみで案山子に化したとしても、いつかは他人と言葉を交わすことによって再び人間になり、人の心のなかで甦ることができる、というメッセージ。アウシュヴィッツで両親を亡くしたフランスの精神科医B・シリュルニック氏が近著『案山子の自伝』(私訳)で述べています(BorisCyrulnik, Autobiographie d’un épouvantail, Odile Jacob, 2008,p.120)。

〝案山子になった人間〟がいる。彼らはもとよりものごとを深く考えないようにしている。悲惨な過去に満ちた内心を再構築するのは、辛酸すぎるからである。どうせなら木でできた胸板と藁いっぱいの頭の方が痛まない。しかしある日、その案山子は久しぶりに人間と出会う。その人間から魂を吹き込まれ、再び人間になろうかと思う。もう一度、人生の苦しみに挑んでみようかと考えるようになるのだ。

 読者よ、人生の難所を通った時、一茶という名の案山子を思い出してください。親戚を失った時、四歳で母親を亡くした一茶を思い出して。我が家から追い出されるようなことがあったら、十四歳で奉公に出された一茶のことを思い浮かべてください。金銭のことで困った時、「米くれ」と成美の家で哀願する一茶を思えば、少しばかり気が楽になるでしょう。大切な人が難病を告知された時、赤ちゃんを残して腎不全で他界した一茶の妻・菊に思いを寄せてください。そしてもしも子供を亡くした場合、諦めないでください。子供四人に先立たれたにもかかわらず、三人目の妻から元気な嬰児を授かった一茶の粘り強さを励みにしてください。人間は他の人間がいる限り、どこまでも頑張れる、そんな不思議な力をもった生き物です。そうはいえ、時には土となり、頑張らないでいることも必要でしょう。ラテン語では「人間的」(HUMANUS)が「腐葉土、土」(HUMUS)と同じ語源であると、以前に述べました。中国語による「人間」という単語の字面も美しいですね。ヒトは「人の間」だからこそ人間なのです。一緒になれば人間は良い意味でも、悪い意味でも地球で最も強い生き物になれます。人間はお互いに調和が取れれば、何だってできる、歴史がそれを証明してくれました。たとえば一九四一年には、ナチがいずれ崩壊するとは誰も思っていませんでした。今は、人間が環境問題を乗り越えるに違いないと誓える人はどこにもいません。しかし、人類が一つになれば、すなわち「人」が「人間」になれば、何だって可能です。

 本連載では、一茶の評伝を通じて、いわゆる「文系的なエコロジー」を提唱してみました。科学的な思考、発明、人々を脅かすデータだけでは環境問題の解決に追い付かないという気がして、一茶晩年の生き方に「心のエコロジー」を求めてみました。三年間の連載を経て、この結論に至りました。人と人の調和が取れて初めて、人と自然の調和が可能になる、という単純な結論。毎日、生活の中で人間らしく振舞っていれば、おのずと自然との調和を望む人間になってゆくのでしょう。真の「エコロジー」は「人間愛」から始まります。一茶さん、二世紀も前に「ヒューマニスト・エコロジー」の精神を示して頂いたことに、心から感謝しております。

 よく耳にする極まり文句があります。「子供たちにどんな地球を残すかが心配だ」と。たしかに、四十億年前から奇跡のように地球に芽生えた生命を、たった二十万年前に現れた「人間」が滅びさせるようなことがあれば、この上なく勿体無くて悔しい結末です。化石燃料の使用が激化して五十年、この短い期間で、四十億年の進化の到達点の一つである「人間」がすべてを台無しにするかもしれません。皮肉の極まりです。一方、もっと〝文系的〟な思考でこの問題を捉えるなら、逆に「地球にどんな子供を残すかが課題だ」ともいえるでしょう。今まで、〝理系的なエコロジー”は、地球の様々な病の治療を考えてきたような気がします。それに加えて、今度は〝文系的なエコロジー”をもって、治療ではなく予防を考える時期がきたのでしょう。そもそもなぜ人間は地球と仲が悪くなったのか

? 自分に何ができるのか?

 僕の場合、今のところ、なるべく無意味な仕事を減らし、娘の育児のための時間を作り、彼女に様々な動植物や人間を見せたりして、地球、そして人生が好きになるようにしてあげることが、「自分にできること」の一つなのです。生命礼賛の句を作ることが、その次に大切な仕事でしょう。俳人の皆さん、俳句こそ「文系的なエコロジー精神」を示すことができる筈です。これから、共に歩みましょう!


by showahaiku | 2018-11-19 10:32