2018年 02月 21日
金子兜太先生の訃報 Haiku Master TOTA KANEKO has passed away
2018年 02月 05日
細谷源二の獄中生活を描いた名文・『泥んこ一代』より「俳句事件」(春秋社、1967年刊)
『俳句事件』
覆刻
(reproductiondu texte original en japonais)
細谷源二著
原本、
『泥んこ一代』より「俳句事件」
(春秋社、1967年刊)(復刻 マブソン青眼)
<著者略歴>
細谷源二(一九〇六・九・二~一九七〇・一〇・一二)、東京市小石川区(現 文京区)生まれ。本名、源太郎。工員。松原地蔵尊の『句と評論』に加わり、一九三八(昭13)年、渡辺白泉、藤田初巳らと「広場」を創刊。工場生活を取材し、口語表現にも挑戦した。四一年、新興俳句弾圧により検挙され、約二年半収監される。四五年、北海道豊頃村の開拓地に家族とともに入植、その辛酸は句集『砂金帯』に詳しい。四七年、砂川の東洋高圧に施盤工として入社、定年後札幌市に移った。この間の四八年、俳句人連盟の地方機関誌「北方俳句人」を主宰したが、連盟の分裂により休刊。四九年、「東圧俳句」を合併して「氷原帯」創刊、主宰。北海タイムス、北海道新聞俳句選者。五〇年、北海道文化奨励賞受賞。
(『現代俳句大辞典』、三省堂)
代表句
鉄工葬をはり真っ赤な鉄打てり
英霊をかざりぺたんと座る寡婦
地の涯に倖せありと来しが雪
一
一九四一年二月五日、東京はみぞれが降って寒かった。どこかでけたたましく鶏が鳴き、犬がそれに答えて吠えた。妻が名刺を私の前につきつけた。警視庁○○○巡査部長。目黒H署の特高の刑事なのだ。「来たな」、私は布団からガバと立ち上がった。と同時に、黒い鳥打ち帽子をかぶったままのデカが三人、部屋にはいって来て、いきなり私の腕をつかまえた。
「ちょっと調べることがあるから署まで来てくれ」
おろおろする妻には薄笑いをして
「なに、すぐ帰すから心配せんでいい。蔵書は全部後から届けてくれ」
部屋を調べていた鷹のような顔の刑事が家の工員に命じた。私の家は航空機部分品製造の下請け工場をやっていて、男工五名、女工四名、いずれも住み込みである。玄関を出るとき、子供が火のように泣いた。
治安維持法違反でやられた「京大俳句」事件の火の手が東京に飛び火して、いつかは来るという覚悟は内々していた。戦争に持ちこむための地ならし的検挙で、私のようなざご(雑魚)一匹たりとも容赦はしなかった。自由主義がいけない時代だったから、「工場俳句問答」などを雑誌に掲載し、俳句のプロレタリアリアリズムを唱えていた私たちは、コミュニストではなくともいくぶん焦げ臭いやつとして睨まれていたに違いない。
H署の特高主任のB警部補はわれ鐘のような声を出す男だ。
「君は工場を経営している男だから、赤とはおかしい。これはなにかの間違いじゃあないかね」
と、俳句運動など軽視していたらしく、こんなことをいってくれた。警視庁の命令で、やむなくやったという、かなり同情的な態度だった。
留置場の重い錠がはずされて、暗い洞窟のような穴がほっぱりと開いた。はいると、留置場の看守巡査の前で帯と猿股の紐とをとられ、髪の毛から足先まで調べられた。帯と下駄を持って立っていると、熊坂長範のような、髯むじゃらな年齢不詳の男がぬうっと来て、「おい、こっちへ来い」と言いながら、留置場の隅の戸棚のほうへ歩いていった。戸棚をあけると、男は急にきょろきょろと泥棒まなこを光らせて、「おい、早く入れろ入れろ」と、指を二本口に当てがって煙草を吸うまねをした。煙草をくすねていたら、早いとこ戸棚に入れろという意味なのだが、あいにく私は煙草を吸わない。よしんば吸うとしても、刑事部屋から煙草をちょろまかせて来るほどの常習犯ではない。煙草がないとわかると、髯むじゃらは大分がっかりしたようだ。
「君はきょうから二十一号となったんだから、番号を呼ばれたら返事したまえ」
看守も思想犯にはことばが丁寧だ。
留置場の暗さに眼が慣れると、六つの鉄格子のはまった部屋と、疲れた色の畳が敷いてある保護室とがわかった。はいった部屋には先客が四人いた。髭だらけの顔をして、白い眼で一せいに新しい侵入者をにらんだ。私はとたんに本で読んだ江戸時代の伝馬町の牢のことを思い出した。伝馬町の牢には、階級制度があって、牢名主・角役・二番役・三番役・四番役・五番役・本役・大隠居・若隠居・本役助と順位があった。牢名主は畳に坐り、角役と二、三番役が一枚の畳に一緒に坐ることができる。牢内の制裁には、鞘の格子に手をかけさせ濡れた雑巾を太股に当てがって、黒痣のできるほど殴りつける方法、両手両足を鞘に縛りつけて一昼夜立たせて眠らせない方法、また布団蒸しにして逆さに羽目に立てかける方法、そんなリンチがあった。
昭和のみ代のありがたさは、そんなリンチこそなかったが、房内では一切話をしてはならないという厳しいお達しである。満足に口のきける人間が一日中黙りこくってお互いに顔を見合っているのはやはりきらい。いきおい手真似をしたり、薄いござの上に字を書いたりしていた。隣に坐っていた禿頭は、虱取りが終わってから、私の膝を押した。見ると、筆談だ。
「お前は何をしてつかまった」
私はどう説明していいかわからなかった。しかし、最初がかんじんだと思ったから「殺人未遂」と書いたら、禿頭は眼を丸くして驚いた顔をした。
警視庁から取調べの刑事はなかなか来なかった。日はどんどんたってゆく。妻や子のこと、生活のこと、工場のことが気になって眠れない。羽目板の一枚を一日と数えて、爪でしるしをつけた。
「思想犯はなかなか出られないよ」。看守は惟忰とした私を見て言った。私の留置所生活もやや慣れてきた。悲しみは日々に鉛の重みで積み重なってはいったが、房には房の変わった生活があって、気のまぎれることもあった。
私の房は、スリと、賭博犯の朝鮮人、禿頭のノビ(窃盗)がいて、後からチンピラがはいってきた。筆談でめいめいの犯罪のあらましを知ったが、禿頭のノビはチンピラに、先に出たら天丼を差し入れてくれと頼んでいた。房の弁当も最初の二、三回は臭くて食えない。汚れた木箱のなかが仕切ってあって、ひとつまみの菜とひと切れの薄いタクアン、それに朝夕は味噌汁がつく。
この味噌汁が大変なしろものである。出所するやつから、牢名主の髯むじゃらが内緒でいくらか心付けを置いてもらう。これを看守に頼んで、紙や塩を買って備え付けておく。汁が来ると、牢名主が房から出て、この汁に湯を足して塩を入れ、分量をふやして各房に配給する。古顔にはこの汁を何杯でも吸える恩典がある。牢名主は汁を椀によそって、「おいしいよう」と妙なアクセントでふれながら、子供におもちゃを恵むサンタクロースのように髯面をほころばせる。ずいぶん汚れたサンタクロースだが、みんなはこのサンタクロースを怒らせないように「ハイありがとう、ご馳走さん」と声を掛ける。
紙は小さく切っておいて、水っ洟の出たときや虱をつぶすときに一枚ずつもらうことにしている。なにより困ることは便所で、一日に三回しか出してもらえない。なるたけ湯水を飲まぬよう心掛けなくてはならない。それから朝の便所は大変だ。大便所にたいがい古参ははいっていて、上からのぞけるようになっている扉から見ると、しゃがんだ男は目を細めて短い煙草を吸っている。一分くらいすると、また代わりの古参がはいる。短い煙草が次から次へと移される。その間大便のつかえた私は、ゴミを曳く馬のように目やにを溜めて、汚れきった姿で待っていなければならない。この煙草ルートはあとになってわかったのだが、刑事部屋でご馳走になる煙草をたくみにちょろまかしてきて、房のうすべりのふちに挿し込んでおく。マッチの軸も同様にして隠しておき、朝の掃除のどさくさまぎれに取り出して便所に持ってゆく。彼らにとっては相当の苦心と冒険であるが、便器の上にまたがって吸う煙草の味は、王侯貴族が絢爛たる部屋で吸う煙草の味以上であろう。
房の弁当で腹がすいてしょうがないようになれば、まず留置所暮しも一人前といえよう。古参が新入りを歓迎するのは、大概一、二回はまずい弁当に手を出さないか、半分くらい残すからである。残された弁当を房から取り出した牢名主は、一応形式的に「これどうしますか」と看守に聞く。看守は鷹揚にうなずきながら、誰それに食わせろと声をかける。この看守に指名されて残飯にありつけるのは、牢名主と、房内の古顔で神妙にしているやつである。古顔たちは耳をそばだてて、この恩典に浴そうとする。
看守も交替制だから、温厚なものばかりは来ない。大体が看守巡査は交番勤務で成績のいいのが私服(刑事)になる登竜門として、この留置場勤務をおおせつかる仕組みになっているのだから、剣道何段とか柔道何段とかいう肩書のついたのが多い。だから荒っぽいのにぶつかると、留置人も一せいに引きしまる。運悪く監房で話でもしようものなら、廊下に引きずり出され、看守の柔道の稽古代にさせられたり、手錠をかまされてこづき回されたりする。あるときこんなことがあった。第一房と第三房にはいっていた詐欺の共犯ふたりが、なにかの合図を交わして、同時に狂人の真似をしだした。看守が制止しても聞かない。あきらかにニセ狂人とわかっていたので、看守は怒ってふたりを裸にして、水槽のなかに浸けた。ふたりのニセ狂人はそれでぴたりと癒ってしまった。
拘留日いっぱいの二十九日がくると、私の場合、また二十九日の拘留が更新された。昔は、二十九日がきてまだ調べが済まぬ場合には、一度警察の玄関まで連れ出して、また新しく検束したらしい。しかし、私の場合、検事拘留だから更新、更新を繰り返せばよいのだ。
本庁(警視庁)からY刑事が来て、手記を書くように命じた。世界情勢に対する意見やら、ソ連のコミュニズム革命のこと、天皇制のこと、次に俳句作品の自句自解を書かされた。プロレタリア革命のことなどよく知らい私は、刑事の気に入るようにはなかなか書けなかった。ある日、そんな私にじれったくなったか、Y刑事は、同じ日に捕えられてS署にいる秋元不死男の手記を持って来て見せた。それによって私は、「広場」からは私のほかに藤田初巳・中台春嶺・林三郎・小西兼尾、「土上」から秋元不死男・古家榧夫・島田青峰、「俳句生活」から栗林一石路・橋本夢道・神代藤平・横山林二、「生活派」から平沢英一郎等がやられたことがわかった。昭和十五年、「京大俳句」事件を発端として東京にまで手を伸ばした弾圧は、全体主義・挙国一致体制への切り換えのために、遅かれ早かれ全国の文化団体にかぶってくる圧迫でもあった。
いつの間にか梅が散り、桃が咲き、桜が咲いた。妻とは週一回ずつ面会が許された。そのたびに、もうそのころ手にはいりにくくなった餅菓子や寿司など持ってきた。食べ物を手に入れるのに、半日以上も並んだりして、警察に来るのが午後になることもあった。そんなとき、特高主任に面会を断られて泣く泣く帰ることがある。主任としても規則上、午後からでは拒否するのだろうが、ある日こんなことがあった。私は刑事の情で警察の屋上に出してもらった。久しぶりで吸う空気の味は格別で、屋上から見える目黒の町、青葉若葉の強い香りを放つ街路樹、たくましい新樹の息吹きを近々と嗅いで、目くらむ思いである。ふと舗道に目を落とすと、いま面会を拒絶された妻が、打ちのめされた形でトボトボと帰ってゆく姿が見えた。屋上に私がいることも知らずに帰ってゆく妻、若葉の光と旅の白さとが、妙に印象的だ。「おい、俺はここにいるぞ」と叫びたい心を押さえて、じっと見送っている。手に提げた食べ物の包みがうらめしい。ふと刑事のほうを見ると、刑事もまた初夏の薫風を吸って目を細めている。「逃亡」、ふっと恐ろしい考えが頭をかすめる。ここから屋根伝いに逃げれば、あるいはつかまらないかもしれない。だが、それだけの勇気があっても、留置所暮らしで萎縮した足腰では自信がなかった。
手記をもう何百枚書いたろう。藁半紙へエンピツで書き込んでゆく俳句の解釈は、日ごとに吐く溜め息の量と匹敵した。プロレタリア革命の目的のためにこういう俳句を作ったと、一句一句のあとに注釈をつけなければ通らなかった。そんなばかばかしい嘘がどうして書けよう。一日も早く釈放されたい心と、嘘を書くことのできない心とが衝突して、鉛のような憂鬱が身を襲った。苦悩・困憊・焦燥。髭は芦のごとく伸び放題、日夜虱に吸われる乏しい血、そんな日々のなかで特に嫌だったのは夕暮れだった。夕茜が警察を染めるころになると、留置場の裏手の柔剣術の道場で、稽古を終えた巡査たちが詩吟をやり出す。普通の人が聞けばなんでもないその声も、逆境にある身には哀切極まりなく聞こえるのである。
しかし、それよりも哀しいのは、子供のことを聞くときである。九歳になる長男の孝は、私がいなくなってからは独りで遊ぶときが多くなった。「お前のおやじは警察につれてゆかれたんだろう」と近所の子供に言われて、家へ逃げ帰って泣き伏せしたという。警察などに引っぱられるのは、泥棒や人殺しにきまっている。「お父さんはなにもわるいことをしたんじゃない」といったって、はたしてどれだけわかってくれるだろうか。これによって子供の性格が暗くなり、将来救いようもない男にならないとは言いけれない。
ある日妻が、わなわなとふるえながら召集令状を持ってきた。野戦重砲兵として軍籍のある身だから、当然来るものが来たという感じで、驚きはうすかった。警察につかまっているより軍隊にはいったほうがよいと思ったが、本庁で軍隊司令部のほうへ連絡して、この赤紙は握りつぶしになった。「お前みたいな危険人物を軍隊などにやられるか」と、本庁のY刑事が来て憎々しげに言った。一緒に捕まった中台は病気で、自宅に帰された。家へ帰って温かい布団にくるまって寝られる彼をうらやましく思った。林三郎にも召集令状が来て、彼は勇躍出征したと妻が報じた。
やがて私も牢名主になった。牢名主の利得は、食事の世話、房の廊下や外部の拭き掃除、便所の掃除などができることである。運動ができるから、からだのムクミがとれる。気晴らしにもなる。私が俳句作家とわかって、俳句の好きなK看守はときどき話しかける。「どうだ、虱の句はできないか」という。しかたないから、
虱とる手にしみじみと梅雨は来ぬ
とやってごまかした。K巡査はそれでもその句に感心したようだった。警察雑誌の俳句欄の秀作に載っていた
湖心より返して早し秋の蝶
をひどくほめちぎり、自分でも作った句を半紙に書きしたためていたが、
軒下のひよこあやうき雪崩かな
が自慢の作らしかった。K看守は俳句よりも非番農夫をやって大根を作るのが上手であった。
私の房の向かい房にいる西尾という医師は、マルクスの研究サークルに参加していたかどでつかまったのだが、私はこの西尾と房の鉄棒のすきまから顔を見合わせては、空間に字を書いて心を通わせるようになった。彼は刑事にひどくやられた日などは、空間に字をさかんに書く。「キョウハ、デカニ、ヤキイレラレタ。コノウラミハ、キットカエス」とか、「ハヤク、ココオデテ、ウマイモノオタベタイ」等々と書く。このほうが本当らしい。私もすしを握る手付きをして口に入れる真似をしてやると、「テンプラガダイスキダ」と書く。その字を書く影が廊下に射し込む陽に映る。いいあんばいに、看守が書き物をしていて気がつかない。
うっとうしい梅雨が終わると、一足飛びに夏が来る。留置所の外の樹に、はや蝉の声さえ聞こえる。牢名主になっていくぶん、自由が得られると、私の身体に潜む男が顔を持ち上げることがある。禁欲生活を余儀なくさせられ、体も衰弱しているけれども、面会にくる妻のからだを見れば胸がうずく。房内の保護室には女が幾人も入って来ては、やがて出て行く。その種類は家出娘・万引き女、赤の容疑者、狂人・売春婦。このうち売春婦と狂人が一番多い。狂人がはいってくると、看守は私に手伝わせる。うっかり傍へ寄ると、糞小便の垂れ流しで臭気鼻をつき、パンティから着物まですっかり取り換えなければどうにもならない。失恋した狂女などは、廊下にしゃがみ込んで恋人の名を呼び続ける。いつだったか、やはり狂女がはいってきたので、顔を見ようとしたら、いつまでたってもうつむいて顔を見せない。久しぶりで嗅ぐ女の匂いとばかりに近よってのぞき込んだら、女はうつむいた顔をいきなりあげて、ニヤリと笑った。いや、その時の気味の悪さ。虚ろな死魚のような眼と、黄色い乱杭歯、おまけに髪を振り乱してというお誂え向きの狂女。これもさすがには牢名主も、慄然と肌の引き緊まる思いであった。
狂女の次に手を焼いたのは万引き女。これがまたすごぶる美人で、ヒステリーときている。この万引きが便所に行くとき、男の房をのぞいてウインクをした。それを看守が見て制裁を加えることになったが、男と違い女だけに看守ももてあまし、私に応援をもとめた。牢名主の役得とばかり女の後ろにまわって、逃げようとするからだを押さえた。むちむちするからだが私から逃げようと身もだえる。その体臭と柔軟な弾力が、私の抑制された心を刺激する。困ったことには、看守が打たぬうちからヒイヒイ大声をあげて泣き叫ぶ。結局、しまつに困り、そのまま保護室に入れてしまったが、マゾヒズム的な快感が手やからだにのこって、私はその夜遅くまで昂奮して眠られなかった。
七、八、九、の三か月間は蚊が多くて、留置場はやりけれない。例の出所する者が置いてゆく金で蚊取り線香を買ってもらい、房の外側の段に渦巻きを置く。これも牢名主の役である。しかし、線香の有能も留置人の眠るまで間で、あとは少々蚊に食われても平気のしたたか者ばかり。前科十四犯の小西という男は、もう一生改心することなど考えてもみない。人のものを盗むのが自分の正業と、心から思っている。「おい小西、お前心を改める気はないのか」と顔なじみの看守が言ったら、「じょうだんじゃないですよ、旦那」とふてぶてしく笑っていた。彼は留守の家をねらってトラックを持ってゆき、家財のこらず盗んでくるのが得意だった。
八月には密淫売狩りがあった。M小山あたりの新興喫茶店のウェートレスが多かった。一夜、七、八人の女が挙げられて来た。房の男たちは胸をわくわくして喜んだ。女たちはつぎつぎに髪をほぐし、紐類一切をとりあげられた。ひとりひとり身長をはかられた。男たちの網からのぞく、ぎらぎらと渇いた眼に、女たちは姦淫されていた。女たちは早くて十五日、重いのは二十九日いっぱい拘留された。
はじめ見たときから、T子じゃないかなと私は目をみはって、ひとりの女の横顔をみた。やはりM小山の新興喫茶にT子だった。かの女が売春婦とはどうしても信じられなかった。私がその喫茶店でT子に会ったのは去年の夏ごろで、その頃はかの女も山梨の田舎から出てきたばかりの、化粧の下手な田舎者まる出しの少女に過ぎなかった。お義理にも美人などとはいえない顔立ちだが、少し鼻の上向いているのがなんとなく愛嬌があり、ときおり見せる媚態も自然のうちに出ていた。私は二か月ばかりその店へ通い、あわい恋心に似たものを感じるようになったのだが、その女がわずか七、八か月見ない間に密売春のひとりとして挙げられてきたのには驚いた。かの女のほうは、髪ぼうぼうと生やし、五人殺しの犯人のように変貌した私をちょっと見たくらいでは思い出さないだろう。私としても、どうかここを出て行くまで思い出さないでもらいたい。お互いにこんな留置所で対面するなんて、いやなことだ。多少なりとも心を動かした女に、治安維持法違反という容疑にしろ、つかまっているみじめな姿を見せたくなかった。かの女としても、売春婦になり下がった姿を私に見せたくないにきまっている。しかし、私は牢名主として、弁当の世話から保護室の外側の拭き掃除をしなければならない。それから、一週間ばかり、保護室の前に行くときには顔をそむけていた。幸い、かの女はまだ気づかない。ところが、八日目になって、特高主任が留置所の小さな窓から顔を出して私の名を言い、私を調べ室に出すよう看守に頼んだ。かの女は私の名を聞いて、出て行く私の横顔にふしぎそうに視線を走らせていた。どうやらかの女は気がついたらしい。私はとっさに、「わかったらわかったまでのことだ。なにもいまさら気取ることもない。相手も去年の田舎娘ではないのだ」と覚悟を決めた。
あくる朝、便所の前で「もうすぐ出られるから、心配するな」とかの女に耳うちしてやる。髪の匂いがすえくさくなっている。白粉気のない顔になって、去年の田舎娘の純情さに戻った感じだ。かの女は黙ったまま頭を下げて出て行った。田舎娘が都会生活のわずかな間に転落してゆく。田舎娘のために社会は大きな陥し穴をあけて待っているのだ。いまさら新派悲劇じみた感慨にふけったって、どうなるものではない。
十二月八日、アメリカに宣戦布告、真珠湾の奇襲攻撃、敵戦艦の轟沈撃沈のニュースが留置所にも届いた。スリもかっぱらいも売春婦も「たたき」も赤も、一瞬厳粛な気持ちになる。いよいよ本格的戦争に突入だ。留置所生活などしてはいられない。家はどうなる、妻はどうしているだろう。そして子供は……。私の手記も早く完成させねばならない。本庁の刑事も同じように考えたとみえ、私の頭髪を摑んでこづき回したり、泥靴で倒れた私の頭を蹴ったりしたあげく、「日本を共産国にするために、俳句をもって労働大衆を教化し、漸次プロレタリヤ革命に導く役目をした」と手記に書くことを命じた。私はくやしさに涙をぽろぽろとこぼしながら、一日も早く釈放されたいために、Y刑事の言うとおり嘘をまことしやかに書きあげた。その結果、十二月二十三日、起訴と決定、二十六日巣鴨拘置所送りになることになった。二十五日のクリスマスには、サンタクロースの代わりに町の理髪師が来て、廊下で散髪をし、長い髭とも別れた。髭を落としたら、毛を刈られた緬羊のようにうそ寒い。十一か月前の私の顔を拾った感じだ。苦しかった月日だったが、それなりに思い出もある。明日からの運命は全然わからない。宣戦布告の日に保護検束をされたアメリカの新聞記者も、明日はどこかへ移されるらしい。彼は房内で愛嬌をふりまいていた。そのころめずらしい電気剃刀を持っていたが、看守に取り上げられると、肩をつぼめ、両手を前に出して拒むようなかっこうをして、「ソレスグコワレル」とおぼつかない日本語で心配していた。
二十六日の朝がきた。九時にアメリカ人のほうが先に呼び出された。あずけてあったズボンのバンドを締め、電気剃刀をポケットに収めると、房の髭面どもに片手を振り、サヨナラをしていった。俳句で親しくなったK看守は、「本当なら君を昔流に本縄を掛けて護送するのだが、格別の計らいで手錠なしで自動車だぞ」と、私の顔をみながら笑った。気のせいか看守の目はうるんでいたようだ。やがてふたりの本庁刑事を両わきにして、私は自動車に乗った。軍国調一色に塗りつぶされた街を、緒戦の輝かしい戦勝の発表された街を、嘘のコミュニストを乗せた車は矢のように走った。
私たちの車は、観光バスやドライブ用の車ではない。善良な市民が生涯に一度も乗ることのできない、しごく殺風景な、野暮ったい警視庁差し回しの車である。窓外には厚化粧をほどこした師走の街が転がっていた。無暴な戦争に突入した国の、首都の黄色い顔をした人たちが、狼のように右往左往していた。緒戦の大勝に得意になった将校のかけらが、反り身になって歩いてゆく。屈んでゆく老婆は出征兵士の母かも知れない。
二
空が青い日でも、焦がしたパンのように曇った日でも、塀には自尊心がある。高さを誇示し、胴まわりの太さを自慢にしている。そこが巣鴨拘置所で、私たちの車の終着駅だ。もし人間をよ(選)り分ける砂漉し機があって、善い人間と悪い人間をふるいにかけることができたら、この拘置所にはいるやつは、砂にまじった塵に等しい。ここは完全に外部の騒音を遮断している。人間を生かす殺すも自由にできるところだ。地獄の一丁目、ちょっとクラシックな形容だが、まあそんな雰囲気だ。
最初につめこまれたのは五十畳も敷けるほどの板張りの部屋で、茄子紺のサージの詰め襟と、巡査と同じような帽子をかぶった看守が幾組にも分かれて、新入りの身体検査をやっている。そこで着物をぬぎ、素裸になった。四つん這いになった。尻の穴がのぞかれた。凶器や秘密書類や毒薬、そういうものを裸のからだから探し出そうとしている。合格すると獄衣が渡される。洗いざらした単衣と薄い綿入れ、褌、帯紐、どれもこれも青色だ。着てみると、芝居の丁稚どんのようにつんつるてん、膝小僧がまるだしで寒い。
同じように着終えた二十名ばかりの新入りがぞろぞろと連れて行かれたところは浴場だ。浴場当番の看守が中央につっ立って、号令をかけている。銭湯に飛びこむようなわけにはいかない。一列にならんで浴槽の前にしゃがむと、「頭を洗え」と号令がかかる。青色の手拭いで頭をごしごしこする。「手を洗え」「足を洗え」「きんたまを洗え」、それがすむと、やっと入浴。「湯のなかで手足をこするな」と、また号令だ。十一か月ぶりの入浴で、湯が針のように身体を攻める。
入浴が終わると、煌々と電気のついた部屋に一同引率される。正面に一段高い台があり、四、五人の看守を左右に置いて、まんなかに看守部長が立っている。「これから部屋を言い渡すから、お前たちの名と前科を名のれ」という。前列の右端から、おかしな自己紹介が始まった。「金野欲太郎、四十七歳、前科十二犯」こいった具合で、つぎつぎに名乗りをあげる。驚いたことには、前科のないのは私ひとりだ。ここで前科の多いほど偉く見えるからふしぎだ。
「お前たちはこの国家非常時のおりに罪を犯してこんなところへ来た。まことに不心得な人間どもだが、しかし犯した罪に服し、一日も早く社会へ出て国家のために尽くしてもらいたい」、大体こんなような訓示があったが、めいめいの顔には「なに言ってやがる」とか「くそくらえ」というふてぶてしい色が出ていた。
房は第一棟から第六棟まであり、第七棟は女囚棟らしかった。それぞれ厳めしい鉄格子が入口にかまえ、非常時には門が左右に開かれるようになっていた。私は第二棟の一房にはいることになった。襟に番号札が縫いつけられた。「ロ二一二一号」、番号の上にある「ロ」という印はなんだろう、単なる「イロハ」順のロか、もしかすると国の字の略であるかも知れぬ。そうだとすると「国事犯」とか「国賊」とかに通ずる。
私のはいる一房は二棟のとっぱなにある。房は一房からはじまり、両側と二階・三階にまで及んでいる。二階・三階も下から見えるように、天井なしである。房の扉ははいると外側から自然に鍵がかかるようになっている。小さなのぞき窓がくりぬかれ、細かい金網が張ってある。扉の左側に釘があって、廊下へ出るときにかぶるための編み笠をかけるようになっている。廊下の中央に立て机を置いて、二棟の担当看守が交替で監視している。
房は畳二畳と板張り一畳分に、その板張りに顔や食器を洗う台がある。使わないときには蓋を下して食卓になる。腰掛けも板張りで、その板をあけると水洗式便所になっている。早くいえば、便所の蓋に腰掛けて飯を食う仕掛けだ。洗面台の下は物入れになっていて、紙屑箱がひとつほうりこんである。房の両側は冷たい壁だが、洗面台の向こう側に窓があるのは助かる。だが、逃亡できぬように鉄格子がはまって、金網がはってある。窓の戸が内側から把っ手を押して半開きになる。庭の一部が見える。なんの木だが、枯れはてた姿で立っている。その木の全体は見えぬが、幹の一部がいたましい肌をしている。庭の中心は花園になっていて、春から夏にはとりどりの花が咲くに違いない。
房の片隅に青色のせんべい布団が二枚積んである。起床が五時、就寝が七時。起床後と就寝前に点呼がある。点呼のときには担当看守が房の扉を合い鍵ではずしてあける。未決囚が房の中央に坐して礼すると、看守部長はまた次の房へ映る。食事は三度ともニュームの飯椀と汁椀だ。食事の世話や廊下の掃除、成績のよい囚人がどこかの監獄から回されてきている。彼らはみな坊主頭で、青い囚服を着ている。飯にも等級があって、その労働に応じて盛りかたが違う。外回りで土方などするものはわれわれの二倍ぐらいの飯を与えられるらしい。
未決囚は金さえあれば差し入れ弁当が食える。これも五種類あって、四十銭・六十銭・八十銭・一円・一円二十銭である。券を買っておいてその都度雑役の囚人に頼むと、担当のところへ届けてくれる。弁当は木箱で、飯は白米だが、値段によって菜が違う。一円二十銭はデラックスで、菜が十二種類以上もついている。しかし、金持ちの未決囚ではないかぎり、毎日差し入れ弁当を食うわけにはゆかない。私は六十銭の弁当を、栄養失調を防ぐために週一回食べることにした。おかずは全部食べずに鯛味噌のびん詰めのなかにのこしておき、二度にも三度にもして食べた。
この房に来て一番痛切に感じたことは、寝るも起きるもひとりだということである。留置所生活は口もきけない厳しさだが、牢名主をしていたので看守と話をすることもできたし、新入りの世話などで人に接することもできたが、ここでは真からのひとりぼっちである。一日五分間が運動の時間で、希望すれば運動場に出られる。その時も編み笠をかぶり、他の房の人の顔も見られない。運動場にはいれば編み笠はとるが、ここもひとりひとり扇型に板で仕切ってあり、人の顔は見られない。ただ孤独をまぎらわすために尻はしょりをして、せまいところを駆けまわるのみである。夜になると、その孤独は一層つのる。友とするものは薄暗い電燈と屑箱と洗面器具だけだ。その上に火の気のない房の寒さがこたえた。水っ鼻が流れてくる。手がかじかんでくる。背から冷水をかけられたようで我慢できない。薄い綿入れの囚人服ではどうにもしのげない。立ち上がって狭い房を歩いてみたが寒さがひどい。壁にからだをぶつけることにした。一回、二回、三回、四回、からだをぶつけるたびに、ひしひしと狂おしい絶望感が量をふやしてゆく。「俳句を作っただけでこんな苦しみをするなんて、考えられない」私はつぶやく。「人間いかに生くべきか」を俳句の上でうたい、より正しい人間として生きることがなぜいけないか。わからない、わからない。世のなかなんてみんな間違いだらけだ。戦争も間違いなら、人を殺す武器を作っていることも間違いだ。戦争に反対する人間をこんな小さな部屋に閉じこめるのも間違いだ。悪い人間を監視する人間が悪いことをしている。そういう間違いだらけの世の中が、一日一日消えてゆく。そしてめぐり合わせの悪い人間だけが間違いの犠牲になって、苦しい目にあう。馬鹿正直に人間の生きる道を口にしたものが罰せられる。
ここへ移って五日目、昭和十七年の正月を迎えた。ささやかにひとりで食う雑煮であった。去年の正月、一家なごやかに食べた雑煮のことがしきりに頭に浮かぶ。おだやかな雀の声、羽つきの音を聞きながら、屠蘇をくみかわした昔が偲ばれる。同じに起訴されたと聞く秋元不死男・栗林一石路・橋本夢道・古家榧夫・藤田初巳・横山林二・神代藤平等は、どこの房にいるのだろうか。どんな心境で新年を迎えているだろうか。
元旦も獄衣の青に首はめて
A刑事から「戦陣訓」が送られた。「死ぬことを見つけることは生きることをみつけることだ」という葉隠武士の精神は私にもわかる。ある一節にこんなことが書いてあった。
「恥を知る者は強し。つねに郷党家門の面目を思い、いよいよ奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すなかれ」
この筆法でゆくと、私などは恥を知らぬも甚だしい。郷党・家名を汚すこと大であり、生きて虜囚の辱めを受け、こんなところにふち込まれているのだ。散弾を口にほおりこまれた感じで「戦陣訓」を読みおわった。
獄では十日に一度のわりで、獄書が貸し出される。ボール紙の石板と石筆が渡され、貸出し書の目録をみて、借りたい本を書き出すのだが、宗教書が多い。いまさら宗教の門をたたいて生まれ変わる気もないから、これはもっぱら敬遠。次に文学書のほうに目を通すと、島田青峰著「俳句の作り方」がある。島田青峰は私たちと同じ日に検束された人で、留置場でからだを悪くして自宅に戻されたが、とうとうそれが災いして、後に尊い命を落としてしまった作家だ。その人の書いた本が獄書として貸し出される。矛盾というよりばかばかしさで腹が立つ。結局、罪に価しない者を罪にしようとするから、こういう間違いができるのだ。
毎日が退屈だった。担当に願って獄の作業をすることにした。風船貼り、軍手の指かがり、軍足の足かがり、封筒貼り、さまざまな手仕事があった。軍手・軍足の仕事が一番多い。霜焼けになった手で毎日精を出した。作業をするようになって毎日の飯の級が上がったらしく、盛りが多くなった。賃金は一日みっちりやって十七銭くらいだったが、手先の早いものは三、四十銭の仕事をするらしかった。
一か月一回、妻が面会に来た。編み笠をかぶって面会所に連れてゆかれる。おおぜいの看守がいて、拡声器を通じて面会人に番号を伝えている。囚徒のほうは面会の順番がくるまで、公衆電話のボックスみたいな箱にはいって待っているのだが、私は入れられたボックスのなかをキョロキョロ眺めた。すき間をふさぐためか、調書のほごを細く切って貼ってある。そのなかに昭和三年〇〇月の調書の切れはしがあって、徳田球一の名がみつかった。さらに別なほうに昭和八年〇〇月徳田球一とあるのを見付けて愕然とした。徳田球一はこんな未決監に五年何か月間もつながれ、さらに網走監獄に送られたのである。彼のような不死身に近い巌乗なからだであったから耐えられたので、私のような骨の弱いものでは、網走どころか未決監で死んでしまうだろう。
面会の順番がきた。私はボックスから連れ出され、ひとつのドアを押した。薄暗く小さな箱形の場所だった。立っていると、ストーンと音がして目の前の板戸が下がり、向こうが見えた。向こうにも同じような窓があいて、ひさびさに見る花野のような妻と、その背中に眠りこけている病鳩のような女の子の顔があった。妻と私との中間に看守が椅子にかけていた。面会時間は三分間くらいだった。妻と私はことばに追いかけられている者のように、体(休?)む暇もなくしゃべった。少しでもことばを止めると、面会時間があっても打ち切られるからだ。まんなかの看守は私たちの会話を細大もらさず筆記している。筆記されていると思うと、思い切ったことが言えず、ありきたりな平凡な会話になる。私は腹立たしくなり「そのうち脱獄するから」と言ってイヒヒヒヒと笑ってやりたくなった。女の子は目を覚まさなかった。私には目を覚まさないほうがよかった。襟に番号をつけた獄衣の父を見る幼子の驚きを想像するだけでも慄然とする。
面会寒し妻の背の子は病む鳩か
面会が終わり、ふたたびひとりぼっちの房へ連れ戻される。私は空っぽな顔になって、いま別れた妻子の顔をけんめいに追いかけている。わずか数分間のおしゃべりだが、ここへ来て数えるほどしか口を使ってないので、舌がこわばる感じである。房の壁に向かってパントマイムじみたかっこうで、瞼の妻子と話をする。
それから数日過ぎて、布団が差し入れられた。ひと月も近くも青い獄の布団で凍死人のように眠ったのだが、今夜からは暖かいこの布団にくるまって寝られる。生きて三十六年、今日ほど布団をありがたいと思ったことはない。妻の移り香の残っているような布団に顔を押しつけて、涙をぼろぼろと落とした。
例の半開きの窓は私の心の窓である。朝ごとにこの窓を押す。そこには季節の敏感ないぶきがたゆたっていて、春ともなれば芝生の緑が匂うようだ。看守が囚人二、三名を連れて庭のあちこちを掘って堆肥を入れ、やがてその上にカボチャの種を蒔いたのもその頃だった。チューリップやたんぽぽやシクラメンなどの花々の咲き乱れるのを夢想していた私にとって、カボチャのつるがのび、田舎くさい黄色い花が咲くのでは、ちょっと当てがはずれた。しかし、日本の食料事情は、空地といわず庭といわず、食べられるものを作らなければならぬほど窮屈になってきたに違いない。
そのカボチャのつるが犬の尾ほど伸びかけたころ、私の目は夜になると霞んでよく見えなくなった。鳥目になったのだ。栄養失調と作業の疲れとが原因らしい。このまま作業を続けたら、最悪の場合失明するかも知れない。担当に願って、医療室に行った。医者は私の眼をひんむいてなにかぼそぼそと呟いた。私が黙っていると、いきなり頭をなぐって「こらなんとか言わんか」とにくにくしげな顔をする。「あっ、なにか言ったんですか、耳が遠いので」とあやまる。「耳が遠いっ」医者はいたずらっ子の耳を母親が引っ張るようなやりかたで私の耳をのぞき込む。「うむ、鼓膜に穴があいている」と、擦り切れた草履を塵溜めに捨てるように耳を放した。作業を中止して、毎日壺のように便座に腰掛けて暮らした。
友だちというものは、どんな境遇に落とされても、作ろうと思えば出来るものだ。私の第一の友は蟻だった。ある日窓のふちを見たら、壁のなかに巣でもあるらしく、蟻の往来がはげしい。獲物を担いで得意になってゆくのもあれば、なにか大発見でもして注進に行くと見えて、走ってゆくのもある。私は蛾を殺さないように捕まえて、翅を水で濡らし、蟻の道にあおむけに貼りつけてやる。蛾はしきりに手足をバタつかせて逃れようとする。蟻はよき獲物とばかりに寄ってたたかって蛾をひきずってゆく。次に私は蟻のアパートを造ってやることを考えた。十銭で買った昆布菓子のパラピン紙と袋紙を飯粒で貼りつけ、いくつもの部屋をつくり、その部屋を往来できるようにし、外部へは逃げ出せないように作った。そして、ところどころにパラピン紙の窓をつくり、中の状態を見ることのできるようにした。このアパートが出来上がると、さっそく蟻をつかまえてひとつの口から押し込んでやる。しかし、この蟻の友だちは、アパートなどは真っ平と、紙のつぎ目をみつけて逃げようとする。当分の間、これで私は慰められた。しかし、毎日の房内検査に、このアパートを隠すのに困った。しかたがないから、紙屑箱の底に隠しておく。無事発見されなかったときにホッとするのである。ゴミ隠しの遊びをやった、遠い昔が思い出される。でも、これは長続きがしなかった。ついに何日目かで発見されてしまった。紙屑箱から蟻のアパートを取り出したときの看守の顔は、怒った演技をするピエロのようだった。
第二の友だちは鳩だった。鳩たちは房の住人たちに馴れていて、飯粒を窓の金網の目に押しつけてやると、窓の狭いふちにからだを運んできて食べる。ところが、平和のシンボルのような鳩の世界も、弱者は強者のために食を奪われた。夫たる鳩は妻鳩のために腕力をもって私の飯粒を確保しなければならない。雄鳩と雄鳩の争闘は、狭い窓ぶちで行われた。雄鳩は金網に片脚をかけ、嘴をもって互いの首を攻めた。力尽きた雄鳩は窓下に転落する。勝鳩の妻鳩は夫の凱歌のふくみ鳴きを聞いて飛んでくる。夫婦相和して私の飯粒のご馳走を食べ、いとも厳粛なる口づけを行なう。
夜盲症はなかなか癒えない。私は失明したときのことを考えた。どうして妻子や父母を養っていくか、盲になったらあんまをやるか。しかし、人の肩を揉む仕事なんてとてもできそうもない。そのときは大道に立って、好きな落語でもやって食っていこう。それから壁に向かって落語の練習をした。三語楼や小さんの真似をしてみた。「エー、子供ってえものはなん人あっても結構なもので、子は子宝と申しますからな」。こんなせりふをやっているとき、のぞき窓があいて担当の目が光った。私はおしゃべりの機械を呑みこんだような顔をしていたに違いない。
ここへ来てよかったと思ったのは、週に一回入浴できることと、理髪屋に行けることである。湯のほうは五分間で出なければならないから、最初に入浴の順番が回ってきたときは、湯が沸騰していて、水をうめている間に五分過ぎてしまう。なんのことはない、あとのもののために湯加減してやるようなものである。理髪屋の職人はやはり囚人で、街の理髪屋のようにお客に頭を下げるようなことはしない。「おい、どんな頭に刈るんだ」と聞かれたとき、私はうっかり町の理髪屋に行った気で「うん、いいあんばいに刈ってくれ」と言ったら、理髪屋はものすごく怒って「この野郎、俺を甘く見やがって、いいあんばいとはなんだっ」といきり立った。なにしろ相手は囚人だし、職業用の剃刀もある。喧嘩したら大変なことになる。「どうも済みません」とお客のほうで謝ってごきげんをとっておく。
庭のカボチャが大きくなり、つるが枯れて秋風がめっきり肌に沁みるころ、子供から手紙が来た。オトウサンゴゲンキデスカ。ボクモゲンキデ、マイニチガッコウニイキマス。コノアイダ、ニワトリノヒヨコヲカイマシタ。ヨルハサムイノデ、ハコニイレ、ワラヲカブセマス。ハヤクオオキクシテ、タマゴヲウンダラ、オトウサンにオクリマス。オトウサンハヤクカエッテ。
髭むじゃらな男が手放しで泣く図なんて妖怪じみているけれど、まるで涙の管が破裂したように泣けた。のぞき窓に看守が来たようだ。血止め薬をつけたように涙を止めてから、釘一本で自由自在に脱獄することのできる、脱獄常習犯のことを考えた。
獄に秋風片仮名で来る子の手紙
動いて起こす風を秋風と言いて笑む
脱走を考える獄の秋風に乗って
戦争の状態は全然わからなかった。ただ予感では、今度の戦争は日本が負けるような気がした。私は英語講義録を差し入れてもらい、筆記勉強ができないので、全部を暗記しようとした。担当看守は新しい講義録が差し入れらるたびに、「敵国のことばなど習ってどうするのだ」とにくにくしげに言った。
また新しい年が来た。月日に対して不感症になっているため、二度目の正月を迎えてもなんの感動もない。相変わらずの房内風景、晴れた日は五分間の運動に出してもらう。ある日運動場の出口で編み笠を故意に傾けた囚人がいた。私が編み笠をちょっと上げた瞬間、しきりに合図を送ってくる。橋本夢道だった。すれ違ったとき「橋本です」とつぶやいた。「あっ、夢道さんかっ」と言おうとしたとき、すでに中央の看守に気づかれて、ふたりはさんざんに油を絞られた。
「きさまたち、正月のことだから勘弁してやるが、今後こんなことがあったら運動に出さない」
編み笠のなかで夢道の表情はわからなかったが、たぶん、ガラスを破って叱られている生徒のような顔をしていただろう。
その後、湯たんぽの注文申し込み綴りが回ってきたとき、十七号房に橋本夢道が居ることを知った。運動に出るとき、十七号房の前を通ったら、その入り口に編み笠がかかっている。まだ彼も釈放されないのかと、安心に似た気持ちだった。しかし、十八年三月ごろ、十七号房の前の編み笠がなくなっていた。ああ、夢道も出所したか ー 鬼界が島の俊寛のように、私ひとりが取り残されたのである。
四月になって、待ちに待った予審がはじまった。朝、予審に行く者は全部手錠をはめられ、一列にならぶ。人員点呼の後、丈夫な縄を手錠に通し、数珠繋ぎに護送車に詰め込まれる。裁判所へは私の育った牛込の町を通る。そこには父母がまだ住んでいる。買いものに出た母が、私の乗っている護送車と知らず「ああまた泥棒自動車が通るよ」と、眉をしかめて見送るかもしれない。
予審では警察で作った調書を否定した。赤の手先になって俳句を作ったなどというばかげた手記を全部否定して、文学的な要求にもとづき、現実と緊密なつながりのある文学として俳句を扱ったことを述べた。しかし、なんと弁じても、当局としては、自由主義にもとづく一切の人間主張を制するのが目的なのだ。少しでも臭い奴は、戦争へはいり込む最初の期間だけ拘束しておけばよい。捕われてすでに一年有余、もう私ごとき小さな存在がどう暴れたって、大局になんの爪跡もつけられぬ段階に日本ははまり込んでしまったのである。
四月十八日、日本本土へ第一回空襲があった。各房には外側から本錠がかけられた。もしこの東京拘置所に爆弾が落ちたら、私たちは狭い房内から出ることもできずに死んでしまわなければならない。
予審が進み、後数日で終結する段階に達した。そのころ房の窓に真っ白な鳩が来るようになった。この白鳩は人に馴れていて、金網から指を出しても驚かない。長い間窓のふちにうずくまって遊んでゆく。私はこの白鳩から、遠い昔の歌人であった初恋の女を想い出した。白鳩のなよなよとした胸などをみると、なぜか失ったその人がよみがえったような気がする。
君に似し白鳩は憂し獄の初夏
ようやく予審終結、保釈出所の日がきた。捕えられてから二年六か月目、空梅雨の日射しが青白い皮膚に痛いばかりに食い込む。生きていれば大きな世の波動に巻き込まれて、人は思わぬ方へ打ちつけられる。善良で小心であればあるほど、不幸は容赦なく襲ってくる。有為転変は世の習いと人は言う。もっと戦争がはげしくなり、都市は爆撃の下にさらされるだろう。しかし、どうなっても、生きられるだけ生きて行かねばならない。小さな風呂敷包みをかかえて出迎えてくれる妻のためにも。
三
幸来ると思いぬ新樹天に燃ゆ
明日来るという楽しさや汗噴けど
東京拘置所の門を出たときは、からだに下げていた重い砂袋を一度に降ろしたような感じだった。出迎えに来ていたのは、父母と子供を背負った妻だった。昔流のあいさつをすれば「ようこそご無事で」とか、「長い間心配をかけました。不孝の罪はどうかおゆるしください」と言うところだが、そんな改まったことは一切ぬきにして、母も妻も眼をぬらしていた。
父だって、「しょうがないやつだ。しかし無事に出てくれてよかった」という喜びを例の渋面で表していた。
東京は梅雨の季節で、本当はじめじめと雨ばかり降って、なめくじの天下なはずなのだが、今年はどういう都合か快晴が続いた。こうして二年六か月にわたる拘留生活から解放されたとなると、正直にいってじっとしてはいられない。私の肩には子供を入れて六人の家族の口がのしかかっているが、これも今はあまり気にならない。光線の強い街のたたずまいが、外国へでも来ているような錯覚を起こさせる。それほどありがたいのだ。
しかし、タフな私も相当疲れていた。休養が必要だ。一坪ばかりの独房でいためつけられたからだを、思い切って伸ばさなければならない。でも、それは不可能だ。明日からの私には、保護監察所のキザな小父さんが鷹のように鋭い眼で私の行動をにらみつけるだろう。そんな眼をかいくぐって、なんとか働き口をみつけなければならない。もちろん大きな工場へははいれないだろう。西日の直射する裏町のベニヤ貼りの小工場にも、前歴をかくして入れてもらうことにしよう。
一か月がすぎた。妻が洗濯して真っ白になったシャツをかぶり、ドブ臭い裏町の小工場に働き口をみつけるために歩いていた。
戦争がはげしくなっていたので、軍需品景気はこの裏町の小工場にも及ばし、鉄材や真鍮材がどの工場でも外にまで積まれてあった。人出も不足しているらしいが、拘置所生活の後頭がめっきり薄くなり、青白い顔をした私の姿をみると、短い脚の上に酒樽をのせたような工場主や、いぎたなく顎ばかり発達した、ワニのような主任が、うさん臭そうに私を値踏みしたあとで、「うちじゃ施盤ばかりでなく、仕上げもやる人をさがしているんだが」とか、「紹介者のない人は警察がやかましいので」とか言って断わる。
私があせっていると、狐のような顔をした保護監察所の所員がたずねてきて、「まだ仕事をやらないのかい」という。
「なに言ってやがんだ。てめいたちのおかげであんなところへ入れられたためだ」と、どなりつけてやりたいが、私は我慢して黙っている。
ある日、私は飛鳥山の近くにいるという、従弟時代の兄弟弟子の井口武のことを思い出した。井口は出征軍人のあとの工場を借りて仕事をしている。従弟時代の友だちにみすぼらしい今の姿を見せることは辛かったが、背に腹はかえられない。
井口武は施盤を使っていた。二十年前の眼鏡をかけた秀才肌の顔のまま年をとって、肥った中年のおっさんになっていた。
「ちょうど一台機械があいているから、やってみるか」
と言ってくれた。こちらの噓を噓のまま受け取ってくれたのはありがたかった。
拘置所を出て三か月目に、公判が開かれた。傍聴人のひとりも来ない法廷で待っていると、一緒に検挙された、俳句誌「土上」の同人、秋元不死男と古家榧夫がはいってきた。
「やあ暫く。お互いにえらい目にあったね」
と不死男が言った。いまさらくどくどと言うこともなかった。お互いに苦笑いをすれば足りる心境だった。やがて検事の席に検事がはいり、判事が正面に座ると、検事の罪状報告と求刑の発言があり、弁護士が型どおりの弁護をおわり、「懲役二年、執行猶予三年」という判事の声が頭上に降り、私たち三人は垂れていた首をあげた。
昭和二十年三月十五日夜の大空襲で飛鳥山の工場も焼かれ、私はまた失業者になった。からだも丈夫になったので疎開引っ越しの荷を曳いたり、女世帯にたのまれて防空壕をつくったりして、いくらかの手間賃を稼いでくらした。
しかし、四月の空襲では別居していた牛込の父母の家が焼けた。焼けあとに行って土中に埋めておいたセトモノ類を掘り出し、タイヤの焼けてなくなった歪んだリヤカーを拾ってきて、セトモノ類をのせると、牛込から新宿にぬけて目黒まで歩いた。油のきれたリヤカーがギーギー鳴るのをだましだまし曳っぱってゆくと、目黒署の玄関に大きな立て看板が立っていた。「北海道開拓団員募集」と、大きな字で書いてある。家へ戻って妻に相談すると、妻も、
「働くところはないし、このままいたら七人のものが飢え死にしなければならないから、父ちゃん行こうよ」
と言う。そこで家の前にむしろを敷いて、不用のものを安値で売り払い、そこばくの金をつくった。そこへひょっくり、誰に聞いたか中台春嶺がたずねてきた。妻にそばをつくらせて、中台とふたりですすった。俳句事件で一緒につかまり、苦労を共にしたこの友達とも、これで一生会えなくなるのだと思うと、目頭が歪んで、くすんと涙が流れてきた。
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関連記事
「北海道新聞」 2022/05/25
しんぶん「赤旗」 2022/06/17
2018年 02月 01日
会計中間報告(2018年1月分)と会計年間報告(2017年2月~2018年1月、監査済み)
「俳句弾圧不忘の碑」建立にご協力・ご協賛を頂いた皆様に、心から謝意申し上げます。本日2018年2月1日、碑の会の会計中間報告(2018年1月分)と会計年間報告(2017年2月~2018年1月、監査済み)を掲載致します。1月は、収入・支出とも小幅な動きで、支出は「除幕式雑費」と「石碑周辺の備品」という項目が主でした。除幕式は、2月25日(日曜日、参加無料、予約不要、13:00~、上田市「無言館」近く「槐多庵」前庭)に行われ、多くの著名人、一般の方、国内外のマスコミ関係者などがご出席の予定です。皆様の心に残るような一日となりますように、事務局一同が準備を進めております...。また、今後、碑のPRを全国的に、そして世界的にも広げて行きたいと考えております。ホームページに進展を随時掲載致しますので、引き続きご支援、ご指導のほどお願い申しあげます。
You can find below the accounting report of the association (up to february 1, 2018). The unveiling ceremony will take place next to"Mugonkan" Museum in Ueda-city, on february 25. We are preparing many "surprises" that should make this day a very special one, for all our guests coming from all over Japan, and from the world...
「俳句弾圧不忘の碑」建立 呼びかけ人名簿
金子 兜太(俳人)
窪島 誠一郎(「無言館」館主、作家)
マブソン 青眼(俳人、比較文学者)
(以下五十音順、敬称略)
安西 篤(俳人)
安斎 育郎(国際平和ミュージアム名誉館長)
池田 澄子(俳人)
石 寒太(俳人)
伊丹 三樹彦(俳人)
宇多 喜代子(俳人)
宇都宮 健児(弁護士、元日弁連会長)
浦野 広明(税理士、日本民主法律家協会副理事長)
榎本 好宏(俳人)
大井 恒行(俳人)
大木 あまり(俳人)
大串 章(俳人)
大串 潤児(現代史学者、信州大学准教授)
大牧 広(俳人)
小崎 哲哉(アートジャーナリスト)
小野 裕三(俳人)
櫂 未知子(俳人)
加藤 多一(童話作家)
川名 大(俳人、俳句史研究家)
河西 志帆(俳人、「信濃デッサン館の会」会員)
岸本 マチ子(俳人)
黒田 杏子(俳人)
小出 裕章(工学者、評論家)
五島 高資(俳人)
小林 秀一(プロボクシング元日本チャンピオン、九条の会会員)
小林 貴子(俳人)
佐怒賀 正美(俳人)
塩野谷 仁(俳人)
ドミニク・シポー(ハイク詩人、フランスハイク協会発起会長)
島田 牙城(俳人)
鈴木 篤(弁護士、「江戸川憲法読む会」代表)
高野 ムツオ(俳人)
高橋 睦郎(詩人、歌人、俳人)
嵩 文彦(俳句作家、詩人)
滝澤 忠義(「層雲」同人)
田島 和生(俳人、評論家)
坪内 稔典(俳人、俳文学者)
寺井 谷子(俳人)
殿岡 駿星(ジャーナリスト、「夢道サロン」代表)
マーティン・トーマス(ドイツ・ケルン大学俳句史研究家)
仲 寒蟬(俳人)
中原 道夫(俳人)
中村 晋(俳人)
成澤 孝人(憲法学者、信州大学教授)
仁平 勝(俳人、評論家)
橋本 榮治(俳人)
橋本 直(俳人)
長谷川 櫂(俳人)
ダニエル・ピー(ハイク詩人、「パリ句会」代表)
藤田 真一(俳文学者)
復本 一郎(俳文学者)
アビゲール・フリードマン(元米国外交官、ハイク詩人)
堀切 実(俳文学者)
堀之内 長一(俳人)
松田 ひろむ(俳人)
松林 尚志(俳人、評論家)
松本 猛(安曇野ちひろ美術館常任顧問)
丸山 美沙夫(俳人、新俳句人連盟副会長・長野県支部長)
宮坂 静生(俳人、俳文学者)
望月 たけし(俳人、新俳句人連盟副会長)
矢島 渚男(俳人、俳文学者)
矢羽 勝幸(俳文学者)
山﨑 十生(俳人)
山中 葛子(俳人)
若麻績 敏隆(白蓮坊住職、画家)
渡辺 誠一郎(俳人)
2018年 01月 01日
会計中間報告(2017年12月分)
お陰様で「俳句弾圧不忘の碑」の建設工事は12月5日に無事終了し、皆様のご協力、ご協賛に心から謝意申し上げます。本日2018年1月1日、碑の会の計中間報告(2017年12月分)を掲載致します。12月は、収入・支出とも小幅な動きでした。これからは残金を、除幕式(2月25日)の雑費、碑の手入れ・周辺備品、毎年のイベントの雑費・文通費などに使わせて頂きます。ホームページに進展を随時掲載致しますので、引き続きご支援、ご指導のほどお願い申しあげます。
※ご協賛金のお振り込みは12月末で締め切らせて頂きました。2018年1月上旬に、協賛者名簿(口数不記載)をホームページにて掲載させて頂きます。